世界唯一                世界学問研究所の公式HP                  世界水準
    Only in the world               World  Academic Institute              Top in the world

自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝
                   
  トップページに戻る                           
                                          
「夏目漱石における科学と文学」

                                     はじめに

 夏目漱石の『文学論』(大倉書店、明治40年[国会図書館デジタルコレクション])は漱石の精魂を込めた大作であり、漱石文学の起点にして基盤である。しかし、科学とかF、f、表などが出てきて、取っつきにくいとされ、挙句の果てにこれは文学レベルを逸脱したものだとされたりする。その結果、その全体の考察というよりは、その中の「文学に関係ある」部分だけをとりだして考察するという傾向になりがちとなる。しかし、これでは、この漱石『文学論』が、世界のみならず、漱石個人にとって持つ、二つの画期的意義を十全に把握することはできないであろう。つまり、漱石は単純な文学者ではなく、科学者(或いは科学志向者)にして文学者、つまり学者、乃至学者指向の人物であるから、文学プロパーでは漱石文学を学問的に評価できないということだ。

 そこで、まず、本稿は、夏目漱石『文学論』の基軸的特徴を、「科学と文学」の関係という観点から考察することを課題としている。この『文学論』は、単なる文学レベルにとどまるものではなく、「科学と文学」の関係を真正面から本格的に考察したものであり、世界的にも類を見ない稀なる作品なのである。漱石がなぜそのような世界的学問課題に取り組もうとしたのかを理解するためには、漱石が少年時代からどのように漢文学・英文学・自然科学を学ぼうとしてきたのかの考察が不可欠となる。この考察なくしては、漱石『文学論』の世界的な画期性を理解することは困難となるであろう。

 次に、この『文学論』の副次的特徴として、漱石個人の創作活動においてこれがいかなる意義をもつかを解明することを課題としている。周知の通り、森鴎外は医学方面に進み軍医となりつつも28歳で処女作『舞姫』を書きあげたのに、漱石は文学方面に進みつつも37歳でようやく処女作『吾輩は猫である』を発表した。もちろん、それまで漱石は文学的に沈黙していたわけではなく、漢詩・俳句を創作していた。しかし、なぜか漱石は小説を書かなかった。この鴎外と漱石の違いは個性差であると言えばそれまでだが、もっと大きな事情がそこにあったのではないかということである。漱石には、小説を創作しようとしても創作できなかった深刻な事情があったのではないかと思われるのである。漱石『文学論』が、この漱石の小説創作遅発の理由を解き明かしてくれるのではないかということである。そうした問題の解明には、漱石の少年時代からの学問的営為過程に『文学論』を位置づけることが必要になる。この試みなくしては、漱石『文学論』の漱石個人にとっての画期性を理解することは困難となるであろう。

 以上、漱石が少年時代からどのように漢文学・英文学・自然科学などを学んできたのかという過程の考察によって、『文学論』の比類ない世界的意義と、『文学論』の漱石個人にとっての画期的意義という二点が解明されることになろう。漱石没後百年の年(2016年)に、漱石『文学論』の世界的・個人的な画期性が初めて学問的に解明されることに非常に意義深い思いがするものである。

 なお、この『文学論』については下記のような貴重な諸研究が既になされている。科学側からする立花太郎氏の極めて貴重な研究を除いて、すべて文学側からの部分的アプローチである。筆者は、これらの重要諸研究などを参考にし、漱石の他の作品などをも考慮しつつ、『文学論』を中心に、部分的にではなく、あくまで学問的観点から漱石の「科学と文学の関係論」を考察する事を目的にしている。なぜなら、夏目漱石とは「科学と文学の関係」を追究し続けた大学者なのであり、総合的・根源的、つまり学問的な考察によって初めてその実体が解明されからである。

   太田三郎「漱石の「文学論」とリボーの心理学--F+fの解明」『明治大正文学研究』7号、1952年6月
   荒正人「夏目漱石の「文学論」」『文藝』河出書房11−8、1954年8月
   吉田精一「夏目漱石の文芸理論」『国文学 解釈と鑑賞』1973年1月ー3月
   井上百合子「漱石の文学論」『国語と国文学』東京大学国語国文学会編、50−7、1973年7月
   夏目漱石著、村岡勇編『漱石資料―文学論ノート』岩波書店、1976年
   塚本利明「『文学論』の比較文学的研究―その発想法について―」吉田精一・福田陸太郎編『比較文学研究 夏目漱石』朝日出版社、
    1978年10月
   立花太郎「夏目漱石の『文学論』のなかの科学について」『化学史研究』1985年
   立花太郎「原子説論争に関するRucker教授の講演(1901)--「夏目漱石の『文学論』のなかの科学観」補記」『 化学史研究』45号、1988年
    12月
   小森 陽一「夏目漱石の『文学論』(漱石とイギリス近代,Symposia第二部門,日本英文学会第65回大会報告) 」『英文學研究』70−2、1994
    年1月
   亀井俊介「夏目漱石の『文学論』」『Aurora』(1)、1997年
   木戸浦豊和「夏目漱石 『文学論』 の修辞学」『東北大学文学部国文学研究室』2011年3月
   荻原桂子「漱石の『文学論』」『九州女子大学紀要』第48巻1号、2011年
   赤木昭夫「漱石の『文学論』 : ナラトロジーとしての現代性」『文学』岩波書店、15−6、2014年

 また、夏目漱石の物理学的造詣については、物理学者小山慶太氏が著した『漱石が見た物理学』(中公新書、1991年)という研究があり、これもまた「夏目漱石における科学と文学」を考える上で大いに参考となる。

 そして、自然科学、物理学に関心・造詣の深い漱石はまた、そういう観点から維新以後の急激な工業化の痛烈な批判者でもあった事が留意されよう。鴎外は普請中としてこれに諦観的理解を示したのに対して、漱石は厳しくこれを批判したのであった。漱石は、貧しい小作人・都市下層社会住民などが増加する一方で、金に狂奔する人々を見て、興隆する工富社会の本質を看破したのである。明治37年に発表した処女作『我輩は猫である』には、滑稽精神を発揮しつつ、すでに工富社会批判の眼差しが随所にうかがわれる。文豪にして物理学の造詣深い漱石は、終始一貫こうした日本近代化の「科学的文学」的な批判者でもあった。漱石文学は、科学とは異なる「科学的文学」にして、日本経済成長の鋭い批判者でもあったのである。



                               一 『文学論』成立の背景
 
                                 1 漢文学修行時代

 少年時代の漢文学修行 
漱石は、明治7年に公立の浅草寿町戸田学校下等小学校第八級に入学した。「当時の小学校の授業科目は、算数、物理もあったが、中心的な科目は漢文学」であった(高継芬「漱石作品が漢文学から受けた影響」『九州看護福祉大学紀要』14巻1号、平成25年度)。漱石は、少年時代から、家庭や学校で漢文学の勉強に従事していた。

 徳川家から天皇の治世となって、明治2年以降南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになり、明治10年には元老院は『纂輯御系図』で北朝に代わって南朝の天皇を歴代に加え、楠正成が後醍醐天皇の忠臣として評価されだした。漱石は、慶応3年という王政復古直前に生まれたこともあり、こうした勤皇機運には関心を持ち、明治12年2月17日に、漱石は正成事績を調べて、僅々三百字余りの短編『正成論』にまとめて、友達と作っていた回覧雑誌に掲載した。

 ここでは、「凡そ臣たるの道は二君に仕えず、心を鉄石の如し、身を以て国に徇(したが)へ、君の危急を救うにあり。中古我国に楠正成なる者あり。忠且義にして、智勇兼備の豪俊なり。・・尊氏の叛するに因て不幸にして戦死す。正成は忠勇整粛抜山倒海の勲を奏し 出群抜萃の忠を顕はし王室を輔佐す。実に股肱の臣なり。帝之に用いるに薄くして却テ尊氏等を愛し遂に乱を醸すに至る。然るに正成勤王の志を抱き利の為めに走らず 害の為めに遁れず 膝を汚吏貪士の前に屈せず 義を踏みて死す 嘆くに堪ふべけんや噫」(国会図書館デジタル図書館『夏目漱石全集』第14巻、315頁)と、正成が帝の冷遇に拘らず忠義、忠勇を説き、反乱軍に劣勢にも拘らず死を恐れず忠義を貫いたとする。12歳ながら、正成の義勇を的確に述べている。

 漱石は、この正成忠勇は、王政復古に命を落とした維新志士の精神に相通じていたろみたようだ。そして、漱石にとって、文学者になる決意とは、そういう勤王家の決意に通じるものであったようだ。それは、明治39年10月26日鈴木三重吉宛書簡(『漱石全集』第12巻、漱石全集刊行会、大正8年、492頁)で、漱石は、「苟も文学を以て生命とするものならば、単に美といふ丈では満足ができない。丁度維新の当時勤王家が困苦をなめたやうな了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違ったら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う」と述べていることからも確認される。岡崎義恵氏は、「漱石が若し勤皇の為に憤起すべき位置に置かれて居たならば、やはりその方面でも士たるの態度を持したであらうと私は推定する」(岡崎義恵『漱石と則天去私』56頁)としているが、的確であろう。また、古川氏は「その文章や語法には長い素養の跡がうかがわれ、その内容や思考には正義を好む気質がはっきり現れていて興深い」と、核心をついた把握をしている(古川久「漱石と漢文学」[『東京女子大學附屬比較文化研究所紀要』8、1959年10月])。

 なお、漱石は、後に「文芸の哲学的基礎」(明治四十年四月東京美術学校において述[『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和63年] )で、「楠公が湊川で、願くは七たび人間に生れて朝敵を亡ぼさんと云いながら刺しちがえて死んだ」事を「意志が発現してくると非常な高尚な情操」の一例としている。

 明治14年春、漱石は、家人に相談して、二松学舎(明治10年漢学者三島中洲が設立)に入学する。漱石は、ここに一年間通い、唐詩選、皇朝史略、古文真宝、復文、孟子、史記、文章軌範、三体詩、論語を学んだ。漢詩から左国史漢まで、漢文学を幅広く学んだのである。漱石は、「かなり上位の好成績」で第2級(多くの者は3級)で卒業した(高継芬「漱石作品が漢文学から受けた影響」『九州看護福祉大学紀要』14巻1号、平成25年度)。

 明治17年頃には、漱石は、最初の漢詩(七言絶句)を作っている。恐らく、二松学舎卒業後に学習成果を踏まえて作成したものであろう。その漢詩とは下記のようなものである。

           「鴻台冒暁訪禅扉(鴻台 暁を冒して 禅扉を訪ふ)
           孤磬沈沈断続微(孤磬沈々 断続して微なり)
           一叩一推人不答(一叩一推 人答へず)
           驚鴉撩乱掠門飛(驚鴉撩乱として 門を掠めて飛ぶ)」(和田利男『漱石の漢詩』文藝春秋、2016年、高継芬「漱石作品
            が漢文学から受けた影響」など)

 これは、「鴻台(千葉県市川市の古戦場国府台の雅称)に禅寺を早暁訪ねると、寂しげな磬(けい。中国古代の楽器)が奥深い趣で、途切れつつ聞えてくる。扉を叩いたり、推したりして来訪を伝えたが、応答はなく、鴉が驚き入り乱れて、門をかすめるようにして飛び立った」(同上書など)と解釈される。そして、推すと叩く、騒ぐ、仏教などの類似性から、これは唐代詩人賈島の「推敲」を踏まえたものとされている。

 後述の通り、漱石は明治20年頃まで東京から出たことがないというから、これは国府台の禅寺を夜明け前に修行で訪ねるという事を想像して書いたものであろう。想像だとしても、賈島が、「僧は推す月下の門」において、推すにするか、敲くにするか迷っているうちに、高官韓愈にぶつかったことをうたった事を踏まえて、漱石は、磬を推したり叩いたりしていると、鴉が飛び立って門に掠めたと歌って、夜明けの禅寺の静と動の一瞬を巧みに切り取ったといえよう。

 明治19年、漱石は「観菊花偶記」を書いて、菊の天性を「隠逸閑雅野趣」(隠逸[菊]は閑雅野趣である」としている(国会図書館デジタル図書館『夏目漱石全集』第14巻、漱石全集刊行会、昭和11年、316頁)。これは、「『天』に触れた最初のもの」で「漱石の一面の理想」(岡崎義恵『漱石と則天去私』55頁)を示していた。

 文学者への決意 明治15、6年頃、漱石は、「漢書や小説などを読んで文学というものを面白く感じ、自分もやって見ようという気がしたので、それを亡なくなった兄に話して見ると、兄は文学は職業にゃならない、アッコンプリッシメント(accomplishment、教養)に過ぎないものだと云って、寧ろ私を叱った」のであった。そこで、漱石は、あくまで「自分は何か趣味を持った職業に従事して見たい」(夏目漱石「処女作追懐談」[『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和47年])という事を基本としつつ、自然科学系でそのような職業を模索する。

 漱石は、まず嫌いな医者を避けて、「ふと建築のことに思い当」たり、「建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶わぬのみか、同時に立派な美術である。趣味がある」として、建築家になる決意をした。しかし、第一高等中学校(明治19年4月に大学予備門が改称)の同級生の米山保三郎(1869−1897年)から、「日本でどんなに腕を揮たって、セント・ポールズの大寺院のような建築を天下後世に残すことは出来ない」、「それよりもまだ文学の方が生命がある」と言われた。漱石は、大所高所の米山説得に敬服して、「自説を撤回して、又文学者になる事に一決した」のであった。そして、漱石は、「英語英文に通達して、外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望」(夏目漱石「処女作追懐談」)をもったのである。大きな志を持って振り出しに戻ったのである。こうして、漱石は、他人の意見を聞き入れ、参考にしつつ、自己本位の姿勢を巧みに堅持していたからこそ、自分の原点に戻れたのである。実にしたたかなのである。 

 数学、物理も得意 漱石は、少年時代から数学・物理学に興味をもち、東京大学予備門予科生時代の学業成績(明治17年12月、17歳)によると、英文解釈66、和漢文59に対して、幾何学86.5、代数学78.9であった(鎌倉幸光「予備門の生徒試業優劣表」[小山慶太『漱石が見た物理学』中公新書、1991年、6頁、以下も本書を参考にしている])。明らかに理科系の少年であった。

 しかし、漱石は、前述の通り文学も好きであり、漢書・小説などもよく読んだようだ。ここに漱石は自然科学系と人文学系のいずれかで身を立てるかで「迷走」する事になるが、これが世界的にも類例のない学者を日本に生み出すことになる。

 ただし、夏目漱石「私の経過した学生時代」(『中学世界』明治42年1月[『夏目漱石全集』19、筑摩書房、昭和47年])によると、幾何か代数のいずれかは不明だが、英語同様に「数学に就ても非常に苦しめられたもので、数学の時間にはボールド(board)の前に引き出されて、その儘一時間位立往生したようなことがよくあった。これは、大学予備門の入学試験に応じた時のことであるが、確か数学だけは隣の人に見せて貰ったのか、それともこっそり見たのか、まアそんなことをして試験は漸っと済ました」とあって、漱石自らは数学は得意という記憶はなかったようだ。だが、数学が、自然、地球、宇宙の考察のための手段とすれば、数学が得意か不得意かということより、後述のような地球観・宇宙観を抱く興味関心を持っていたという事が重要となろう。

 正岡子規との交流 高等中学校時代の明治20年頃、漱石は、「竊に自ら嘆じて曰く、古人萬巻の書を読み、又萬里の遊を為す。故に其文雄峻博大にして、卓然として奇気あり。今、余 「せんぜん」(柔弱)にして「ししょ」(躊躇)し、徒だ父母の郷を守って、足・都門を出でず。而して、其文の域に臻(いた)らんことを求むるは、豈大過ならずや、と。因て憤然として「し」(履物)を曳き遠遊せんことを欲して、未だ志を果すこと能はず。而して、時勢一変、余 蟹行の書(洋書)を挟んで郷校に上る。校課役々、復た鳥迹の文(漢文)を講ずるに暇あらず。詞賦簡牘(書物)の類は、空く之を高閣に束ね、先に所謂頽き纖佻なるもの、亦為ることを得ざらんとす。又安んぞ古の作家を望まんや」(夏目漱石『木屑録』明治22年脱稿[岩波書店、昭和2年[国会図書館デジタルコレクション])と、漢文学創作には旅が必要だとしつつも、それが実行できずに「古の作家」には程遠いとする。

 そこで、明治20年、漱石はと富士山に登り、「函領を越え、白雲蓬勃の間を行けば、脚底・積雪数尺にして、蹠は凍り指は皸(さ)くも、遥に八州の山を瞰(みおろ)せば培ろうの如く、豪気稜々として雲を凌がんと欲す。然も一篇の以て壮遊を叙すること能はず」(夏目漱石『木屑録』)とした。さらに、2年後にも、こうした「自然を心で感得」する旅がなされる。

 漱石は、少年時代からこの頃までの漢文修行に関して、 『木屑録』において次のように述べている。つまり、「余 児たりし時、唐宋の数千言を誦し、喜んで文章を作為る、或は意を極めて彫琢し、旬を経て始めて成り、或は咄嗟 口をついて発し、自ら澹然(淡々と)樸気(飾らぬ自然の気)あるを覚ゆ。竊(ひそか)に謂へらく、古の作者、豈臻(いた)り難からんや、と遂に文を以て身を立つるに意あり」と、少年時代から漢文の暗誦・作成・彫琢名地に従事し漢文学者になろうとしていたとする。しかし、漱石は、「是より遊覧(各地を訪ねる)登臨(山に登って下界を見る)には必ず記あり。其後二三年にして、筺(はこ)を開き、作りし所の文若干篇を出して之を読むに、先に以て意を極めて彫琢すと為せしもの、則ち頽き(くずれること)纖佻(下らない事)たり。先に以て澹然樸気ありと為せしもの、則ち、いひ(屈折する)艱渋あり。・・稿を焚き、紙をたき、面・赤を発して、自失すること之を久うす」と、漢文の創作に努めたが、満足する作品が得られず、焼却処分したとする。上記国府台漢詩もそうした習作期の一つということになろうかとも推定される。

 22年1月、正岡子規と知り合い、「正岡はそれより前漢詩を遣っていた」り、「一六風か何かの書体を書」き、漱石も「詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲を博した」。同年5月、子規は『七草集』を完成し、漱石はそれに大いに触発された。

 そこで、漱石は、22年7月、まず、「季兄(末の兄、つまり三兄和三郎)と興津(清水市)に遊ぶ。地は東海名区たり。滞留すること十余日、しょう散(ものさびしい)無聊なりしも、而も遂に一の詩文を得ず。嗟乎、余 先には文章を為くるに意ありて、而も名山大川の其気を揺蕩する者なく、今は則ち名山大川を覧て、而も一字の風光に報ゆるもの無し。豈天にあらずや」とする。

 次いで、22年8月、漱石は友人5人と、「復た海に航して房州に遊び、鋸山に登り、二総を経、刀川に遡りて帰れり。日を経ること三十日、行程九十余里」に及んだ。漱石は、、旅行中、友人らの酒宴などには無関心で自然の心を感じ取っていた。つまり、同行者5人には、「風流韻事を解する者」なく、飲酒将棋などをしてが、「余独り冥思遐捜し、時に或は呻吟して甚だ苦」しみ、「人皆非笑して以て奇癖となすも、余は顧みざるなり」と、友人などに流されずに自然と交わっている。そして、「一夕、独り寝ねず、臥して清声を聞き、誤って以て松籟(しょうらい、松風)となし、因て憶ふ、家に在りしの日、天大に寒く、戸を閉ぢて書を読む。時に星高く気清く、燥風・・として窓外の梧竹松風、颯然として皆鳴りしことを、屈指すれば既に数年なり。而して余や碌々無状にして、未だ寸毫の学に進むことあらず、又漫に山海の遊を為して、歳月のしゅく忽(たちまち)にして、老の将に至らんとするを知らず。之を当時の苦学に視(くら)ぶれば、豈忸怩たらざらんや」(夏目漱石『木屑録』16頁)と、これまでの自然を軽視してきた書斎学問を深刻に反省するのである。漱石は、自己を柔弱、神経衰弱、他人本位などと謙遜・卑下する傾向があっても、実際の内実は堅固だったということである。したたかなのである。漱石は、周知のように英国留学中に「自己本位」で文学をかんがえるようになったちっているが(夏目漱石「私の個人主義」(大正三年十一月二十五日「学習院輔仁会において述」[『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和63年])、実は「文学上の自己本位」は漱石の生まれながらの体質といってもよい。漱石の文学上の内面は堅固なのであり、問題が生じれば徹底的にそれに立ち向かうのである。謙遜・卑下をうのみにしてはならない。

 帰京後、「秋雨日を連ぬるに会ふ。一室に関居し、旅中の快楽辛酸の事を懐うて、其情に堪へざる者あり。乃ち筆を執って之を書し、積んで数葉に至れり。竊に謂へらく、先きの記あらんとして遊ばざりし者と、遊ぶあって記せざりし者と、相償ふに庶幾からんか、と。然れども、余既に意を文章に絶ち、且つ此篇、閑適(心静かにして)の余に成れば、則ち其の「頽せん」(崩れて駄目になること)纖佻(弱くて軽薄な事)なること、論なきのみ。命(なづ)けて木屑と云ふは、特(た)だ其の塵陋なるを示せるなり」(夏目漱石『木屑録』13−4頁)と、木屑録作成に関わる複雑微妙な心の経緯を述べる。

 さらに、漱石は、この木屑録の執筆態度について、「余の此篇を草するや、筆を執って紙に臨み、先づ其の書せんと欲する所の者を思ふ。既に心に会するあれば、輙(すなわ)ち筆を揮って起ち、直に其の思ふ所を追ふ、或は墨枯れ筆禿(はが)れて而も已まず、既に成れば、藁を抛(なげう)って腹た一字を改めず」と、思いを先行して作文する。そして、漱石は、「或は之を難じて曰く、古人の文を作るや、一字の未だ安(おがや)かならざる者あれば、則ち日を終て之を考へ、一句の未だ妥(かな)はざる者あれば、則ち旬に経(わた)って之を思ひ、鍛錬推敲、必ず其力を盡くして、而る後之を出す。故に其文蒼然として古色あり。鏘然として金石の音を為す。今 子 才古人に及ばざること亦遠し。而して紙に臨んで経営刻苦することを知らず。漫然として筆を下し、速からざらんことを恐る。是れ古人に及ばざるの才を以て、古人の為し難しとするものを為さんと欲するなり。豈大過ならずや」と、古人の作文の鍛錬推敲・刻苦勉励には及ばないとする。最後に、漱石は、「余笑って曰く、文を作る猶ほ絵を為くるが如し。絵を為くるの法、速きあり遅きあり、必ずしも一に牽束されず、意匠惨憺、十日に一水、五日に一石、是れ王呉の山水を画くなり。衣を振うて起ち、筆を揮うて従ひ、頃刻にして之を成す。是れ文鄭(清朝期の三絶と言われた孤高文人)の竹と蘭とを画くなり。夫れ王呉の山水は固より妙なり。而も文鄭の蘭と竹と、豈神に入らざらんや。今 余の文も亦蘭竹の流れのみ、速かるべく、遅かるべからず。且つ余の不文なる、仮(たと)ひ期年にして一篇を成さしむるとも、亦当に此の如きに過ぎざるべし。則ち其の兎起鶻(コツ、はやぶさ)落の速きは、亦蚓(いん。みみず)歩蛇行の遅きに優らずや。」(夏目漱石『木屑録』23−4頁)と、作文は洒脱な境地で遅速に関せず神域での山水画を描くようなものだと述べている。

 漱石は、『木屑録』を見せ」ると、子規は、「英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なり」という跋文を書いてくれたりした(夏目漱石「正岡子規」[『ホトトギス』明治41年9月1日号])。これは漱石の記憶に基づく要約だが、原文に即してこれをもっと正確にみてみよう。

 まず、子規は、漱石の卓越した文才について、「吾兄(漱石の事)の詩文を成すや、必ずしも練磨彫琢せず、必ずしも意を用い心を労せず。而して其文や錦繍(きんしゅう、美しい織物)にして、其詩や珠き(宝石)なり、山を叙し水を状するに、或は流暢平易なるあり、或は奔放峻抜なるありて、紙上に山躍り、筆端に海湧く。魚を記し鳥を形はせば、精緻にして冗ならず、簡雅にして解し易し。嗚呼、吾兄 何の学を修め、何の術を得て、而して此域に至れるぞ」と、実によく漱石の作文態度を理解している。子規は漱石の非凡な文才が本物だと看破したのである。そして、子規は、「吾兄の如き、天稟と言はずして、則ち将に何とは言ふべき」としつつ、自らについては、「余 幼より文を好み詩を属(つづ)り、未だ曾て校課を顧みず、而して時あって景勝を叙し、胸懐をのべんと欲し、千思万考して、日を費やし夜を徹するも、而も墨は滞り、筆は渋り、漸くにして得る所あれば、則ち蕪詩悪文に過ぎず」(夏目漱石『木屑録』25頁)と卑下する。

 次いで、子規は「吾兄と交われるは、則ち今年一月に始ま」ったが、これまで「余東都に来るや、友を求めること数年にして、未だ一人を得ず。吾兄を知るに及んで、乃ち竊に期する所あり。而して其の己を知るを辱うするに至って、而して前日を憶へば、其の吾兄に得る所は、甚だ前に期せし所のものに過ぎたり。是に於てか、余は初めて一益友を得たり。其喜び知るべきなり」と、初めての文学の真友を得た喜びを語る。そして、子規は漱石の和才・漢才・英才について、「余は兄の英文に長ぜることを知るや久しかりしも、而も吾兄の漢文を見るは、則ちこの木屑録に始まる。余吾兄と校に入るや、ともに鴃舌(もくぜつ。分からない言葉)を学び、蟹文(英文)を草す。而して吾兄は嶄然(ざんぜん、抜きんでる)として頭角を現はし、蛮語を話すこと猶ほ邦語の如し。余以為へらく、西に長ぜる者は、概ね東に短なれば、吾兄も亦当に和漢の学を知らざる可しと。而るに今此詩文を見るに及んで、則ち氏の天稟の才なるを知れり。其の詩文を能くするは、則ち其才の用のみ。必ずしも文字の自他と学問の東西を問はざるなり。吾兄の如きは千万年に一人のみ。而して余や幸に咳嗽(がいそう。せき)に接することを得、豈余を敬して愛せざる可けんや」(夏目漱石『木屑録』25−6頁)とするのである。

 漱石と俳句  漱石は、このように漢詩・漢文を書いていたが、当時はまだ「和歌も発句も、況んや謡曲も小説など、少しも試みて」はいなかった(昭和7年11月26日小宮豊隆「『木屑録』解説」)。

 ただし、明治22年5月に子規が喀血し、結核と診断されると、同月13日、漱石は子規に、書簡で「帰ろふと 泣かずに 笑へ時鳥」、「聞かふとて 誰も待たぬに 時鳥」(『漱石全集』第23巻、岩波書店、昭和32年、99頁)と言って、見舞っているから、俳句は既にこの頃からやっていたようだ。

 漱石は『木屑録』後に「子規に勧められて、発句を作りはじめた」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)という。23年9月に、漱石は「子規の添削に従ふ」三句を作っている(『漱石全集』第23巻、99頁)。

                                   2 英文学修行時代

 英文学者への決意 漱石は漢文には自信があり、子規にも評価されていたようだが、文学者としては「漢文科や国文科の方はやりたくない」(夏目漱石「処女作追懐談」)とした。漢文・国文では西洋に対峙できないと思ったようであり、文学としての漢文・国文の価値を否定したものではない。あくまで、「戦略」的に「やりたくない」としたのである。そこで、漱石は「愈英文科を志望学科と定め」、英語で西洋人を脅かせるような「文学上の述作」を書こうとしたのであった(夏目漱石「処女作追懐談」)。漢文・国文では「科学」或いは「真」が感じられず、また西洋に凌駕できぬと判断したのであろう。別の回想録によると、漱石は、「考えて見ると漢籍許り読んでこの文明開化の世の中に漢学者になった処が仕方なし、別に之と云う目的があった訳でもなかったけれど、此儘で過ごすのは充(つま)らないと思う処から、兎とに角大学へ入って何か勉強しようと決心し」(夏目漱石「落第」『中学文芸』明治39年9月15日[『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和47年])、文明開化の象徴ともいうべき英文学で一花咲かせてみようとしたのである。漱石は、「英文学を研究して英文で大文学を書こう」(夏目漱石「落第」『中学文芸』明治39年9月15日)としたのである。

 このように、漱石は、決して漢文学や国文学を捨てて英文学を専攻しようとしたのではなかった。故に、以後も漱石は漢詩を作り続け、明治22−27年に51首、明治29−33年(松山、熊本時代)に23首、明治43年(1910)−大正5年(1916)に59首、臨終前に75首を作っている(高継芬「漱石作品が漢文学から受けた影響」、『漱石全集』第23漢、岩波書店、昭和32年、33−55頁)。

 こうして、明治23年、漱石は、英文学は漢文学と同じような文学であるだろうという大いなる希望を抱いて東京帝国大学文科大学英文科に入学する。この時の抱負について、漱石は、『文学録』序で、「余は少時好んで漢詩を学びたり。之を学ぶ時短じかきにも関らず、文学は暫くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし、斯くの如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。在学三年の間は物にならざる羅甸(ラテン)語に苦しめられ、物にならざる独逸語に窮し、同じく物にならざる仏語さへ、うろ覚えに覚えて、肝心の専門の書は殆んど読む遑もなきうちに、既に文学士と成り上りたる時は、此光栄ある肩書を頂戴しながら、心中は甚だ寂寞(せきばく)の感を催ふしたり」(夏目漱石『文学論』7頁)と語っている。

 別の回想録では、漱石は、、明治23年に「愈大学へ這入って三年を過して居るうちに、段々其希望があやしくなって来て、(明治26年7月に)卒業したときには、是でも学士かと思う様な馬鹿が出来上った。それでも点数がよかったので(特待生になったりして)、人は存外信用してくれた」(夏目漱石「処女作追懐談」)としている。漱石は、在学中に語学の才能を伸ばすことができたが、帝国大学での英文学授業などにはとても満足できなかったのである。馬鹿なのは漱石ではなく、漱石の才能を開花させ得なかった大学であったと言うべきであろう。

 それでは、いかに当時の大学での英文学教育がひどいものだったかを、さらに別の漱石回想のうちに確認してみよう。大正3年講演で、漱石は、「私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋たずねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だか、まあ夢中だったのです。その頃はジクソン(James Main Dixon、1856−1933年、1892年から東大で指導)という人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並ならべてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解るはずがありません。それなら自力でそれを窮め得るかと云うと、まあ盲目の垣覗(かきのぞ)きといったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても手掛りがないのです。これは自力の足りないばかりでなくその道に関した書物も乏しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう」(夏目漱石「私の個人主義」[大正三年十一月二十五日「学習院輔仁会において述」、『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和63年])と、語っている。

 ただし、帝国大学文科大学に英文科(明治20年設立)が創設されて、僅か4年目であり、かなり準備不足ではじまったようだ。つまり、入学者は第一回はゼロ、第二回(明治21年)は1名(文科大学全体でも入学者が8人)、第三回(明治22年)はゼロ、漱石の入学した第四回(明治23年)は漱石1名であり、「語学教師の養成を中心」としていたようだ(亀井俊介「漱石の西洋」[柄谷行人、亀井俊介ら『漱石を読む』岩波書店、1994年所収])。そもそも英国でも大学に英文学講座はなく、帝国主義国家体制に女性・労働者を組み込む過程で英国の文化的優位性を教える手段の一つとして1904年オックスフォード大学に英文学の講座ができたようだ(大橋洋一『新文学入門』岩波書店、1995年)。東京帝大の英文学教育準備が杜撰だったことにはやむを得ない事情もあったようだ。

 だが、皮肉ながら、そのおかげで、「生意気」な漱石は必死に真面目に「文学とは何か」を考えることになったのである。

 松山・熊本時代 この結果、漱石は、「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。余は此の不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、又西の方熊本にゆけり」(夏目漱石『文学論』8頁)ということになる。

 松山中学の英語講師(明治28年4月―29年3月か)を務め、俳句をかなり作り始めたようだ。つまり、漱石が松山に居た時分、「子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来」て、そのまま居座り、「松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん・・止むを得ず俳句を作った」(夏目漱石「正岡子規」[『ホトトギス』明治41年9月1日号])というものであった。28年には、漱石は実に多くの俳句を作っている(『漱石全集』第23巻、岩波書店、昭和32年、103−118頁)。

 次いで、漱石は英文学への「不安」を抱きつつ熊本第五高等学校の英語講師・教授(29年4月ー33年7月)になった。明治29年10月頃、夏目漱石は、「人生」(明治二十九年十月、第五高等学校『竜南会雑誌』[『現代日本文學大系』17、夏目漱石集(一)、筑摩書房、昭和43年])を著して、人生は千差万別であり、「十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人亦また各おの/\千百万人の生涯を有す」、「若人生をとつて銖分縷析するを得ば、天上の星と磯の真砂の数も容易に計算し得べし」なのに、「小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面猶なほ且かつ単純ならず」とする。しかし、「写して神に入るときは、事物の紛糾乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る」として、豊富な漢文知識を駆使しつつ、英国作家論を繰り広げる。そして、「若し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり」としつつも、現実には「不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且かつ乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉かな」と、自然に人間が翻弄されることをのべて、小説の限界を暗示する。この程度の常識的な文学論ならば、誰でも語ることはできよう。ということは、まだまだ漱石は文学とは何かとは根源では分かっていないのである。漱石は、英文学を講じつつ、まだまだ文学とは何かについては、納得してはいなかったことが確認される。文学の正体を探る暗中模索は続くことになる。

 一方、漱石は熊本でも多くの俳句を作り続けた(『漱石全集』第23巻、岩波書店、昭和32年、119−164頁)。漱石は、この熊本で後の物理学者寺田寅彦と知り合う。寺田が「点をもらいに」白川河畔の漱石邸を訪ね、「雑談の末に、自分は俳句とはいったいどんなものですか」と問うた。漱石は、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」、「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」、「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという」、「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である」、「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある」と話すと、寺田は「急に自分も俳句がやってみたくな」り、「夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった」。その時の親身な添削に感動して、寺田は「病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へ通った」(寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」[『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫、昭和23年])のであった。

 しかし、漱石は、熊本時代にあっても肝腎の英文学についてはその核心を理解するに至らなかった。

 英国留学 明治33年6月に文部省から英語研究のために「洋行しないか」と打診されたが、英文学の何たるかもわからぬ者が渡英しても、徒労に終わると、漱石は躊躇した。それでも文部省に推薦した第五高等学校校長・教頭が勧めてくるので、漱石は英文学の研究が許されるならば引き受けるとした。これが文部省専門学務局長の上田万年に容れられ、漱石は、明治33年9月−35年12月に英国に官費留学する。だが、漱石は、「留学中に段々文学がいやになった。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない」(夏目漱石「処女作追懐談」])のであった。やはり英文学に感興を覚えないのである。

 漱石は、訪英後一年間は不安を覚えつつ、暗中模索した。つまり、漱石は、「予期の興味も知識をも得る能はざりしが為に為め」、「大学の聴講は三四ヶ月にして已め」、「論文の材料」を得る事もなく、帰朝後に「教授上の便に供する」ためでもなく、「只漫然と」「文学に関する書籍を手に任せて読破」したのである。著名本のうち「名のみ聞きて、眼を通さざるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終わらん」という目的だけで読書した。「一年余」でも読了本は「未だ読了せざる書冊」に比べて「甚だ僅少」であった(夏目漱石『文学論』5−6頁)。「熊本に住する事数年未だ此不安の念の消えぬうち倫敦に来れり。倫敦に来てさへ此不安の念を解く事が出来ぬなら、官命を帯びて遠く海を渡れる主意の立つべき所以なし。去れど過去十年に於てすら、解き難き疑団を、来る一年のうちに晴らし去るは全く絶望ならざるにもせよ、殆んど覚束なき限りなり」(夏目漱石『文学論』大倉書店、明治40年、8頁[国会図書館デジタルコレクション])と、英文学の本髄が分からぬことの不安がここロンドンでも相変わらず続いた。

 漢文学には自信があっただけに、漱石はこの体たらくに絶望する。「是に於て読書を廃して、又前途を考ふるに、資性愚鈍にして外国文学を専攻するも学力の不充分なる為め会心の域に達せざるは、遺憾の極なり。去れど余の学力は之を過去に徴して、是より以後左程上達すべくもあらず。学力の上達せぬ以上は学力以外に之を味う力を養はざる可からず。而してかかる方法は遂に余の発見し得ざる所なり。翻って思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力にあらず、然も余は十分之を味ひ得るものと自信す。余が英語における知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるるは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず。換言すれば、漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず」(夏目漱石『文学論』8−9頁)と、納得してみたりした。

 すると、「残る一年」の「講学の態度」を一変(夏目漱石『文学論』6頁)させる出来事が起きることにになる。漱石にとっては十年来の不安を評価打させる大事件である。これについて、『文学論』序では、「大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤灯の下に、余が思想は初めて此局所に出会せり。人は余を目して幼稚なりと云ふやも計りがたし。余自身も幼稚なりと思ふ。斯程見易き事を遥々倫敦の果に行きて考へ得たりと云ふは留学生の恥辱なるやも知れず。去れど事実は事実なり。余が此時始めて、ここに気が付きたるは恥辱ながら事実なり。余はここに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。同時に余る一年を挙て此問題の研究の第一期に利用せんとの念を生じたり」(夏目漱石『文学論』9頁)と、従来の行き詰まりを打破して文学の「根本」を把握する糸口に達したとする。往々にして、「私の個人主義」(大正三年)などの回想から、この時に漱石は他人本位から自己本位になったといわれるが、それは正確ではない。漱石は、若い時から内面的に堅固に持っていた「自己本位」思考で、漸く文学論行き詰まり打破となる出会いをみごとに受け止めることができたということである・

 即ち、この時に実は漱石文学論研究史上でj画期的な出会いがあったのであるが、この『文学論』序ではそれが一体何なのかまでは述べていない。夏目漱石「処女作追懐談」によると、明治34年(1901年)5月、「池田菊苗君(物理化学者、立花氏研究によると、池田は「オストワル ドのエネルギー論の基礎にあるマツハの思想に心酔」していた)が独乙から来て、(二ヶ月間)自分の下宿(ロンドン)へ留った。池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚いた」のであったと記されている。この池田との出会いこそが、漱石の十年来の文学的行き詰まりを氷解させることになるのである。池田は、エルンスト・マッハ、カール・ピアソンら記述学派(後述)の科学・哲学・心理学などを漱石に紹介したようだ。漱石は、「大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた」(夏目漱石「処女作追懐談」])と、はっきり語っているのである。池田のもたらした自然科学が、漱石の文学論研究に「大変革」をもたらしたのである。

 明治34年(1901年)9月11日付寺田寅彦宛書簡で、漱石は、「学問をやるならコスモポリタンのものに限り候。英文学なんかは縁の下の力持。日本へ帰っても英吉利に居ってもあたまの上がる瀬は無之候。小生の様な一寸生意気になりたがるものの見せしめにはよき修業に候。君なんかは大に専門の物理学でしっかりやり給へ。本日の新聞で Prof.Rucker の British Association でやった Atomic Theory に関する演説を読んだ。大に面白い。僕も何か科学がやり度なった」(後述立花太郎「夏目漱石の『文学論』のなかの科学について」)と吐露していた。池田の紹介した自然科学的な学問体系のもとで、漱石は文学を「縁の下の力持」と位置づける事ができたのである。当時、漱石が学問、科学としての文学をしたいと言える相手は、寺田とか池田とかの物理学者だったということである。彼らを通して、科学が文学の位置を照らし出したのである。

 こうして物理化学者池田に触発され、科学に造詣ある青年漱石が、学問・科学としての文学を考え、科学とは異なる文学固有の特徴を体系的に本格的に考え始めたのである。漱石が、幼少期から慣れ親しんだ漢文学とは、その根源を「孔子、孟子を代表とする儒家思想」とし、その真髄として「政治、倫理道徳観念をもっとも重視」し、「庶民の苦楽、戦争の悪影響、国家の興亡、倫理道徳は、いつの時代においても重要な課題」(高継芬「漱石作品が漢文学から受けた影響」)であったとされているが、漱石にとっては漢詩に於ける自然描写などに多くを教えられていた。漱石にとって漢文学は問題なく受け入れられたが、英文学は十年来その根元・正体も分からず悩み苦しめられてきたものだった。これが、池田との遭遇・議論で氷解したばかりでなく、英文学論ではなく、文学論一般のレベルで文学の正体解明の糸口をつかみ始めたのである。漱石は、『英文学論』ではなく、英文学・漢文学・日本文学などを普遍的に超えた『文学論』として展開してゆくのである。

 そこで、「余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じてればなり。余は心理的に如何なる必要あって、此世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。余は余の提起せる問題が頗る大にして且つ新しきが故に、何人も一二年の間に解釈し得べき性質のものにあらざるを信じたるを以て、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ヶ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。而も報告書の不充分なる為め文部省より譴責を受けたるの時期なり」と、文学の心理学的研究を始めたと示唆する。五、六ヶ月後には「何となくある正体のある様に感ぜられたる程になり」、「当時余の予算にては帰朝後十年を期して、充分なる研鑽の結果を大成し、然る後 世に問ふ心得」(夏目漱石『文学論』10頁)であった。漸く文学の「正体」を掴み始めたのである。こうして「留学中に余があつめたるノートは・・細字にて五六寸の高さに達し」、「此のノートを唯一の財産として帰朝した」(夏目漱石『文学論』11頁)のであった。

 それから、明治36年、漱石は、「其方針で少しやって、全部の計画は日本でやり上げる積りで西洋から帰って来ると、大学に教えてはどうかということだったので、そんならそうしようと言って大学に出ることになった」(夏目漱石「処女作追懐談」])のであった。漱石は、明治36年9月から38年6月まで東京大学で英文学を講義したのである。これは、自然科学としての文学という大きな問題意識をもっており、「文学の講義としては余りに理路に傾き過ぎて、純文学の区域を離れたるの感」(夏目漱石『文学論』12頁)があった。

 処女作 この傍ら、明治37年12月、漱石は、「編輯(俳誌『ほとゝぎす』の)の虚子から何か書いて呉くれないかと嘱まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた」のであった。所が、虚子が「それを読んで、これは不可(いけ)ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞ったが、兎とに角かく尤もだと思って書き直した」(夏目漱石「処女作追懐談」)のであった。

 漱石は、「虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了(しま)った。というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、別に当時の文壇に対してどうこうという考も何もなかった。ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達して居たのである」と、『文学論』の展開と創作活動が心地よく連動していたことを示唆するのである。そして、漱石は、「書き初めた時と、終る時分とは余程考が違って居た。文体なども人を真似るのがいやだったから、あんな風にやって見たに過ぎない」(夏目漱石「処女作追懐談」)と、当時の文壇ではなく、展開中の『文学論』に相応しい独自文体を駆使した事を吐露するのであった。

 『文学論』 こうした過程で、漱石は、その「文学論」を「十年計画にて企てられたる大事業の上、重に心理学、社会学の方面より根本的に文学の活動力を論」じようとした。それは、少年時代からの、自然科学系と人文学系の連関の所産でもあり、物理学者寺田寅彦と物理談義を重ねたり、物理化学者池田菊苗と一時期交流したりして、英国留学中に、人間の意識に着眼してその研究に着手し、人間心理を原子・電子のように微細に描写するようになった。漱石にとって、科学的文学とは、心の科学となっていったが、それでもやはり科学と文学は異なるとして、文学固有の特徴を解明しようとしたのである。


                               二 『文学論』の世界的意義

 研究状況 
漱石は、明治36年3月から6月に『英文学形式論』、36年9月―38年6月に『文学論』、38年9月ー40年3月に『文学評論』を東京帝大で講義した。漱石は、『文学論』では当時の文学論の研究状況については触れていなかったが、実は最初の『英文学形式論』でそれに言及していた。従って、「この形式論は文学論の前編」(夏目漱石『英文学形式論』岩波書店、大正13年、5頁)ともいうべきものであり、『文学論』序論ともいうべきものであった。ただし、これは、この講義の聴講者である皆川正禧、小松武治、吉松武通、野間真綱のノートを抄録したものであり、しかも皆川が『英文学形式論』と命名したものであり、漱石はこれが刊行されることを想定していなかった。

 では、『英文学形式論』では、文学論研究史がどのように扱われていたのかを瞥見してみよう。漱石は、「普通の教養を持っておる人々の目には、文学なる言葉は極めて解し易いもののやうに見える。だが、此言葉の内容が甚だ漠然として居ることは争はれない事実である」とし、「西洋の学者」の文学論を検討するのである。まず、彼は、当時の英国文学者について、@センツベリー(George Edward Bateman Saintsbury,1845-1933年、『ヨーロッパ批評 と文学的趣味の歴史』3巻、1900年―1904年)は文学概念を述べることなく文学を扱い、Aマシュー・アーノルド(Matthew Arnold,1822-68)は、「文学とは世界に此まで考へられ、云はれたるものの最善を知得させる」と「漠然たる定義」を与え、Bヘンリー・ハラム(Henry Hallam,1777-1859)は、「文学の定義より出立」せず、「文学史中に人間知識のあらゆる方面を網羅し、微積分学あり、ケプラーの積分学あり、べエコン、スピノザ等の哲学あり。思想、情操(フィ―リング)に関する一切の書を蒐めて、これを文学と見做し」、Cバックル(Henry Thomas Buckle,1822-62)は、『英国文明史』(History of Civilization in England)の「文学と政府とが文明に如何なる影響を及ぼせるかを論ずる章」で、「余は文学なる語を科学と云ふ語に対照して使用するのではなく、此を広義に取り、記述された一切のもの」、つまり「事実や意見の記録に文字を適用する」ものとし、「文学の範囲は判明しにくくな」り、Dジョンソン(Samuel Johnson、1709ー1784)は、『ポープ伝』で詩に付いて言っていることを「文学の定義に応用」すれば、「文学Literatureと云ふ語はラテン語の(litera)と云ふ語に起源し」、「幾度か内容の変化を起し」、「一行や二行の定義で表し盡されるものではな」いが、「世人は文学と云ふものに一定の内容を有しめない為め、又如何様にも定義を下すことが出来」、例えば文学とは「時代精神を表すもの」、「文学は当時の風俗、習慣の反映」、「文学は吾人の情緒を上品にし、趣味を純浄するもの」、「文学は美を目的としたる一切の記述」と定義しうることになるとした。

 古代・中世の文学者らについては、E古代のアリストテレスは『詩篇』の初めで、「叙事詩、悲劇、喜劇及び笛、琴の音曲は、それ等の形式の多数は、その一般概念に於て悉く模倣の様式である」と述べ、近頃グルース(Groos)やヒルン(Hirn)は共著『芸術の発達』で「模倣を以て芸術の定義」とし、Fディオ・クリソスタム(Dio Chrysostum)は、「芸術とは芸術家が(不定の)概念に適宜なる現実性を与へる具体的形式である」とし、シェークスピアは『真夏の夜の夢』で「想像力はこれまで知られなかった者の姿を生み出すに伴れ、詩人の筆はそれ等を形態に変へ、空幻であった者に名と住まわれる場所とを与える」とした。

 外国文学者などについては、Gドイツの「諸学者の説は挙げたならば、際限がないから省略」するが、ド・クウィンスィ(Thomas De Quincey、1785-1859年)は、ポープを論ずる際に「文学を知識の文学(教えることが役目、論証的知力)と力の文学(感動させることが役目、「高尚な知力、即ち理性」)とに分ち」、Hトルストイは、『芸術とは何ぞや』において、「人が嘗て経験した感じを自ら想ひ出すこと、此を想ひ出して、運動や線や色や音や又は言語で現はす形式を使用して他人へ同様の感じを経験さするやうに此を伝へること」が「芸術の働き」とし、シェレー(Percy Bysshe Shelley1792ー1822年)もこれに似て、「芸術は或人がさる外的記号を用いて、自己の体験したる感情を意識的に他の人々に伝へ、他の人々は其感情に感染して、己等も亦その感情を経験すると云ふことに成立する一個の人間活動である」と定義するなどとした(夏目漱石『英文学形式論』岩波書店、大正13年、2−14頁)。
 
 漱石は、「以上掲げたる諸定義は、その何れにも尤もらしく思れる点のあると同時に、又何れも物足らない感じがする」として、かつ「近来文学と云ふ文字には各人が勝手の見地から勝手の意義を与へ」ているから、「文学と云ふ文字が明確に使用せられてはいない」とする。勝手な文学論がほとんどで、漱石が納得できる学問的文学論はないのである。これでは文学論研究史は無いに等しいということである。この結果、「出来得べくば かう云ふものが文学であると、定義を掲げて後に説明に進みたいのだが、充分な定義を与へることは私にとって困難であるにより、勢ひ黙認的に出立するより外はない」とした。もともと「文学なるものは科学の如く定義を下すべき性質のものなく、下し得るものとも考へて居らない」とする。そこで、「唯私は此講義に於ては、吾々日本人が西洋文学を解釈するにあたり、如何なる経路(プロセス)に拠り、如何なる根拠より進むが宜しいか。かくして吾々日本人は如何なる程度まで西洋文学を理解することが出来、如何なる程度がその理解の範囲外であるかを、一個の夏目とか云ふ者を西洋文学に付いて普通の習得ある日本人の代表者と決めて、例を英国文学中に取り、吟味して見たい」(夏目漱石『英文学形式論』岩波書店、大正13年、15−6頁)とする。

 分析視角 漱石は、このように文学定義に諸説が紛々としているのは、劇作家・読者などが内容・形式のみを見て、「説を立てる」からだとする(夏目漱石『英文学形式論』17頁)。ここに、漱石は、当初、「文学に関する重要なる原則を列記し、その項目を追うて行かう」としたが、「それでは、その原則以外のものを述べることが出来ない」事になり、「混雑が生ずる」ので、「先づ文学をば 形式Form、内容Matter に大別し」、@まず「限界を付した形式に付いて一々説明」し、A「それより内容に移って・・内容は奈何なる要素から成立するか、奈何なる種類を有って居るか、そして内容は何によって憑拠(デペンド)する者かを調べ」、B「其両者の関係を論じ、進んで内容が時によって区分するかを究め」、C「更に進んで文学が人間に及す効果は如何、其効果は奈何なる規則によって支配せられるものかを見」、D「最後に芸術家が製作する時の快挙と、読者の快挙とを分析する」予定だとした(夏目漱石『英文学形式論』18−9頁)。

 これに対して、文芸学者岡崎義恵氏は、漱石『文学論』の「形式と内容」の分析視角を、個人心理学的考察(主として素材・内容論[第一篇文学的内容の分類、第三篇文学的内容の特質]、主として表現論[第二篇文学的内容の数量的変化、第四篇文学的内容の相互関係])、社会心理学的・歴史的・発生論的考察(第五篇集合的F)という分析視角に組み直している(『漱石と則天去私』宝文館、昭和43年、6頁)。

 
筆者は、「科学と文学」という分析視角から、以下のように考察している。

                     1 文学の自然科学的把握の試みー心理学と文学


 岡崎喜恵氏は、『文学論』は、「西洋の文学原理、特に英国を中心とする心理学的立場から書かれたものであるから、独逸哲学の系統とは異なり、経験科学的であ」り、「従ってその体系の立て方も、私などから見ると分析的・形式論理的で、総合的・弁証法的な所に乏し」く、「その点でやや古風な自然科学的態度のやうにも思はれる」が、「当時一般の学術的形態をなさない直観的な感想や批評に比べて見ると、確かに科学的に見える」(『漱石と則天去私』3頁)としている。弁証法が優れているわけでもなければ、自然科学的態度が古風なわけでもなく、漱石は、当時の最先端の自然科学と心理学によって初めて普遍的、科学的な文学論を構築しようとしたのである。

                                    @ F と f

 F+f 漱石は、『文学論』において、「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念(Focal impression or ideaかー筆者)を意味し)、fはこれに付着する情緒(feelingか。関数functionにもかけ、いくつにも変換できることを示唆しているかー筆者)を意味する。されば、上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したものと云ひ得べし」(夏目漱石『文学論』1頁)とする。これが、漱石文学論の基本原理であり、彼特有の文学への科学的アプローチの現れである。これは、漱石が寺田寅彦に話した俳句論、「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」を彷彿とさせる。漱石は、俳句のおかげでこの(F+f)論を抽象的にではなく、具体的に把握していたとも思われる。

 そして、漱石は、「吾人が日常経験する印象及び観念はこれを大別して」、(1)「Fありてfなき場合、即ち知的要素を存し、情的要素を欠くもの、例へば吾人が有する三角形の観念の如く、それに伴ふ情緒さらにあることなきもの」、(2)「Fに伴ふてf生ずる場合、例へば花、星等の観念に於けるが如きもの」、(3)「fのみ存在して、それに相応すべきFを認め得ざる場合、所謂“fear of everything and fear of nothing”の如きもの。即ち何等の理由なくして感ずる恐怖など、みなこれに属すべきもの」とし、「以上三種のうち、文学的内容たり得べきは(2)にして、即ち(F+f)の形式を具ふるものとす」(夏目漱石『文学論』2頁)とした。

 これに関して、石原千秋氏は「『文学論』は、Fとfの具体的な内容の検討と、それらの多様な『結合』のあり方から、範列的(パラディグマティク)に生成する文学言語の多義性を能うる限り類型化したものなのである」(石原千秋『漱石の記号学』講談社メチエ、1999年、24頁)とするが、漱石は文学言語のみに限定しているのではない。

 意識の流れ 漱石は、Fを心理学と連関させる。つまり、漱石は、「先に余はFを焦点的印象若くは観念也と説きしが、ここに焦点的なる語につき更に数言を重ぬるの必要あるを認む。而して此説明は遡りて意識なる語より出立せざるべからず。意識とは何ぞやとは心理学上容易ならざる問題にして、或専門家の如きは、これを以て到底一定義に収め難き者と断言せし程なれば、心理学の研究にあらざる此講義において徒らに此難語に完全なる定義を与へんと試みるの不必要なるもを思ふ。ただ意識なるものの概念の幾分を伝ふれば足れり。意識の説明は「意識の波」を以て始むるを至便なりとす。此点に関してはLloyd Morganが其著「比較心理学」に説くところ最も明快なるを以てここには重に同氏の説を採れり」(夏目漱石『文学論』4−5頁)とする。

 漱石は、ロイド・モーガンから「意識の法則」(「意識の時々刻々は一個の波形にして、之を図示」でき、「波形の頂点即ちは焦点(Focus)は意識の最も明確なる部分にして、其部分は前後に所謂識未なる部分を具有するもの」で、「吾人の意識的経験と称するものは常に此心的波形の連鎖なるべからず」)を学ぶ。そして、この「解剖的波形説より推論して、此法則の応用範囲を拡大するときには凡そ意識の一刻にFある如く、十刻二十刻、さては一時間の意識の流にも同じくFと称し得べきものあるにはあらざるか」(夏目漱石『文学論』6−7頁)とする。そして、モーガンは、連合心理学者として、「心的要素の結合、観念の連合によって心のはたらきを説明しよう」(『大辞林』第三版、三省堂、2015年)とし、「類似」 「隣接」「対照」の三つの原理に「連合の法則」を見出そうとした(木戸浦豊和「夏目漱石『文学論』の修辞学」)。また、ロイド・モーガンと言えば、「ある行動を説明するときに試行錯誤学習など低次の心的過程として説明できる場合には、高次の心的過程(推理など)で説明すべきではないというモーガンの公準(あるいはモーガンの節約律)を提唱」(サトウタツヤ「心理学史 -第22回-」[日本心理学会のHP])した事で知られているが、あくまで漱石は「類似」 「隣接」「対照」の三原理に基づく「意識の法則」として注目したのである。『吾輩は猫である』で猫の意識を表現した漱石としては、モーガン公準は相容れないものであったろう。

 以下、漱石は、「概略ながら文学的内容たり得べきもの即ち情緒を随伴し得べきものの範囲を定め、これらの内容は皆(F+f)の形式に当てはめ得ることを作例に指示」(夏目漱石『文学論』100頁)する。

 文学核心たる情緒f 漱石は、「情緒は文学の試金石にして、始めにして終なりとす。故に社会百態のFにおいて、苟も吾人がfを付着しうる限りは文学的内容として採用すべく、然らざる時は用捨なくこれを文学の境土の外に駆り出さざるべからず。而して、今文学的内容たりうべき一切のもの、換言すれば(F+f)の形式に改めうべきものを分類すれば、(1)感覚F、(2)人事F、(3)超自然F、(4)知識F、の四種となるべく、自然界は(1)の標本にして、(2)の標本は人間の芝居、即ち善悪喜怒哀楽を鏡になしたるもの、(3)の標本は宗教的F、(4)は人生問題に関する概念を標本とするものなり」(夏目漱石『文学論』101頁)とする。

 これに関して、岡崎義恵氏は、「このやうに智的内容よりも情緒的内容の方が重大であるとすれば、漱石の説は大体文学といふものを情緒の表現と見てい」て、「漱石は文学性の問題としても、又文学の価値等級の問題としても、情緒の『強大の度』を問題とするのであって、情緒の質を問題としない」のであり、「この事は漱石の文学論の致命的な欠陥であって、強度の情緒を惹起するものが高い文学的価値を持つといふ如き立論はかなり不具なものと言はなければならない」(岡崎義恵『漱石と則天去私』11頁)と批判する。だが、漱石は、文学性の問題として情緒の強度も質も単独では問題としていないのであり、あくまでFとfとの相関で論じているのである。

 なお、漱石が、上記で審美的Fを含めなかった理由として、「吾人が文学に対して生ずる情緒が審美的なることは明白なる事実なれども、こはただ前に挙げたるFに付属して起こり来るものにして、単独にかくの如き一種の情緒あるにあらず。故に強て審美的情緒なる語を用いんとせば、以上のうちにあるものを引き抜きてしか名くれば足る。これ余が特別に此項目を置かざりし所以なり。されば其審美情緒の起源に関する諸説、例えばShillerの『遊戯説』或はGroosの本能説等につきて、余は何事も云はんとするものにあらず」とする。漱石は、この審美情緒は、主観的情緒でfに含まれ、「常に快感」であるとする(夏目漱石『文学論』101−2頁)。

 漱石は、(4)知識Fについて、「元来知的Fが文学的内容として余りにも適切ならざることは以上の諸例にて明らかなるべし。但し専門の科学者が斯道の書に対し激烈なる感情を生ずる事は時に意外な事あるが如し」(夏目漱石『文学論』113頁)とする。

 超自然F 漱石は(3)超自然Fについて、「超自然Fが強きは斯の如く、人事Fが弱きは前に述べたるが如くにして、而も双方のFが等しく抽象的傾向を有するは、少しく奇異の感無きにあらず。若し此疑義に就き一言することなくんば、余が先に下せる概則(文学的内容は具体的なれば、なる程、情緒を惹き易し)を打破するに似たり。多少の弁明を要す」とし、「心理の作用は、もと反射運動を以て始まること、学者の定論なり。反射運動は盲動的にして意識せる目的を有する理なし。然れども其盲動なるものが自らの生存の目的に適応することは、其物の生存しつつある事実にて充分に證明せらると言ふべし」とする。

 そして、彼は、「さればかかる反射運動は一種の無意識的目的に向かって作用するものにして、しかも其境遇其他の種々条件につきては毫も介意するところなし。此反射運動に次ぎて来るべきは本能にして、これ亦著く器械的性質を帯ぶるものなり。而してある一定の程度に進みたる生存体にありては此本能の活動不要に帰するにかかはらず、其運動は依然として器械的に持続するものとす。約言すれば上述の反射運動、本能行為は共に一種の構造より生じ来るものにして、其器械的なる又融通の利かざる点が両者に共通の性質なりと云ふを得べし。而して後者は前者を総合したる結果なるを以て、これをまた複反射運動と名け得べし」とする。

 しかし、漱石は、「生存漸く複雑となるに従ひ、これらの器械的作用は幾多の障害不都合に遭遇し、何者かこれを指導するにあらざれば生存の目的上自滅を招くに至ること明らかなり。而して此必要に応じて現はれたるもの即ち知力にして、これ幾多の経験を重ねて得たる適応的手段に外ならず、世に言ふ習慣を意味するものなり。而して更に進みて行動と其結果を明晰に意識して所置するものを実用判断力と名け、合理的なる点に於て其効力、習慣の上にあり。かくの如く論じ来りて其最後に置くべき能力は所謂普遍的判断力にして、これ即ち過去雑多の経験を総合して案出したる未来の指南車とも目すべきものなり。」(夏目漱石『文学論』120−1頁)と、知力を位置づける。

 そして、漱石は、「吾人人類の心的発展を尋ぬれば本能の自然的変遷を待って進歩したるものにあらず、全く知力が経験を利用して本能其物の発達区域を脱却し、常に其先駆をなせしものなること明白なり。而して本能的Fは最強のfを有し、習慣的Fはこれに次ぎ、これに次ぐに実用的判断を以てし、普遍的Fのf最も弱きは事実なり。近く譬喩を設けて云はんに同情、若くは同類相憐むの理は、恐く生物界に共通の本能にして、同族相食み闘争殺人一日として絶間なき此修羅の浮世にも、事実はよく人類の聚合性を證し、母は其子の為に身命をなげうって悔いず。本能に伴ふfは常にかくの如く強大なり」とする。
 
 ついで、漱石は、「実用的判断の一例と称し得る親切なるものは如何。これ何人も是認して実用しつつある尋常一様の道義に外ならざれども、時にはある結果を意識して其目的のための一個人に対する一種の手段たるの意を含むことなきにあらず、其力の純にして粋なること到底本能的fに及ぶべくもあらず」とし、「「最後に来るべき普遍的判断、仮令ば大義名分、或は正義なるものを見よ。満天下は一見此両義に支配せらるるが如き観なきにあらざれども、正義は常に情実に服すること、古往今来歴史の告ぐるところにして、其徒らに、高尚の主義として存するのみにて、伴ひ来るfは甚だ微弱なるを驚かざるを得ず」とする。後者に関しては、漱石は、「Kantの言なりしと覚ゆ、『世の中に親切の情は珍しからず、されど正義に至りては誠に稀に見るところ』と。宜なるかな、由来判断力に乏しき女性にありては、生涯正義の何物たるやを解し得ずして世を去るものさへ夥しき数に上るべし。猶、進んでは所謂学者と称するものの倫理説の如き其時代の最高判断に基けるものなること明らかなれども到底之を実践履行するの不可能なるは事実の證明する所なり。これ其理論的に合理なるを知りつつ吾人の心、即ち情的中心の飛び離るること、余りに大にして之を伴ひ進む能はざるに由るならん。(Hobhouse[Leonard Hobhouse[英国の社会学者・政治学者],Mind in Evolution全部を参照すべし)」(夏目漱石『文学論』122−3頁)と敷衍する。
          
 漱石は、神に対する情緒を「科学的」に考察する。つまり、「吾人が神に対する情緒は直接に吾人の第一目的たる人生其物に密接の関係を有するが故に、知力分子増加して神の属性が広く遂に漠然と意義なきに至れる今日にありても其強烈の幾分を保存し得たるなり。これを表にて示せば」、下記の通りになるというのである。

  自然界物体(F)   ;英雄(F’)  :偶像教の神(F’’)   :耶蘇教の神(F’’’)
  ーーーーーー   ーーーーー ー ーーーーーーーー  −−−−−−−−−−
      f             f           f              f

 漱石は、これによって、「神の観念は知識の発達と共に推移したるものなれども此間常にfは変化することなくして「付着」し来れるものなり」だが、「第四種の知識Fに至りてはかくの如く密接に人世と関係することなきを以て、其fも従って第三種のFの如く強大なる能はず。故に第四種Fは抽象の度に応じて其f著しく減少するものとす」と、fは一定不変だが、Fは増大し続けるとする。そして、「強大なる宗教的Fを有せる耶蘇教に於てすら、時代もあり、知識的に其無能なるを見て取るや、人間と神との媒介者にして合一体なる耶蘇を以て其真髄となせり。耶蘇とは取も直さず有限の世より無限の界に進む掛け橋の川に供せらるるなり。すべて皆これ物を具体化してこれに伴ふ情緒を大にせんと計るに出でしに過ぎず」(夏目漱石『文学論』129−130頁)とする。       

 こうして、漱石は、「第三種の材料、即ち所謂超自然的事物を代表するものとして宗教的分子を選み、而してこれに強大なる情緒の付着する所以につき一応解脱を試みた」のである。だが、漱石は、「宗教的材料は固より此種の重なる代表者たること勿論なれども、単に之れを以て第三種の材料の全体を覆ふものなりとする能はず。余の所謂自然的材料中には単に宗教的、信仰的材料を含むのみならず凡ての超自然的元素即ち自然の法則に反するもの、若くは自然の法則にて解釈し能はざるものを含めばなり」(夏目漱石『文学論』130頁)とする。

 漱石によれば、この「自然の法則に反するもの」とは、古来小説詩歌の材料として使用せらるゝ幽霊、Hamletの幽霊、Macbethの幽霊、Richard の幽霊、The Bride of Lammermoor 中Aliceの幽霊等である。荻原桂子氏は、漱石は長年こうした霊に関心を抱いてきたとする(荻原桂子「漱石の『文学論』」)。

                                A 文学的内容の数量的変化

 以上、漱石は、「文学の四種材料を分類し、其各特質を論じ、又其相互の関係を説明し」てきたが、「これより少しく着目点を移して此四種の材料は数量的に如何なる原則の下に推移しつつあるかを辨」じ、「此等の材料は全量に於て増進するものなりや、減退するものなりや、また静止の状態にあるべきかを検せんとす」(夏目漱石『文学論』142頁)とする。現在、言葉、漢字などの使用状況などを調査する数量的・統計的研究はある。だが、あくまで趨勢的な変化ではあるが、「文学材料(F+f)の増減如何を論じるにあたっては、「Fの増減如何を究め」、Fが増減するならば、「増減的Fに伴ふてfは如何に移り行く」かを考察し、「此二者の性質明瞭に決定し得たる後、吾人は始めて文学的材料の数量的変化につき云々することを得る」(夏目漱石『文学論』142−3頁)としたのは、文学史上で漱石が初めてであろう。

 Fの変化 漱石は、「吾人の認識力」は、幼年、少年、青年時代、@「識別力の発達」(Fが識別力発達でF’、F’’、F’’’のように「分岐し得る」)、A「識別すべき事物の増加」の二つに規定されるとする(夏目漱石『文学論』143頁)。

 そして、Fの増加は、@自然や見聞事項など感覚的材料の増加、A「人事人情に多様の差異」や人事事項の増加などで「人事的材料」の増加」などによるとする(夏目漱石『文学論』145頁)。

 fの変化 漱石は、「吾人の知覚力は其識別の点に於て又其増加の範囲に於て又其増加の範囲に於て如此絶えずFを増加しつつある間に、これに伴ふべきfは如何にと云ふにこれ亦一種の意義に於て増加しつつあること疑なし」(夏目漱石『文学論』146頁)とする。

 次に、fの増加は、(1)感情転置法(心理学で「一物」AなるFにつきてあるfを起す時、ある原因より此fは他物なるFにも付着し来る現象を指す」)、(2)感情拡大の法(転置ではなく、「fの移推にあらずして新しく出来たるFに新しきfを付着し其結果として文学の内容を富ましむるの意」)、(3)感情の固執(「転位にも、拡大にもあら」ざる法で、@「F其物が消滅するか」、或いはA「F其物にfを付着する必要なきにもかかはらず、因襲の結果、習慣上より従来のfを付着せしむる」事)という「三つの法則」に支配されているとする(夏目漱石『文学論』146頁)。

 例えば、(3)の@の具体例として、「婦人の貞操」をあげ、「貞女両夫に見えずと云えども、凡そ夫死すれば妻の貞操の職務当然消滅すべきは明白ならん。然るを世は婦女をして両夫に見えしめず、女も見えざるを以て得意とし名誉となす、これ全く其情緒の持続するを證するもの」であり、「情緒の固執」と名づけた(夏目漱石『文学論』154頁)。また、(3)のAの具体例として、旧臣が旧藩侯に「従前の封建的旧態を改めざるが如き」(夏目漱石『文学論』155頁)を挙げる。

 以上、「情緒(Fに付着する)は数に於て増加し、又F其物も増加するものなるを以て(F+f)なる文学的材料は性質に於て増加すべきものなること明らかなり」として、図表で表示する(夏目漱石『文学論』156頁)。

 fに伴う幻惑 「今迄はf其物をただ漠然と論じ来り、fが文学の欠くべからざる必須要素なること丈は大抵述べたりと雖も、f其物の性質の細目に亘りては未だ論及するところあらざりき」として、@「読者が著者にたいして起こすf」、A「作者が其材料に対して生ずるf」、B「作者の材料たるべき人間、禽鳥のf」の三種のfを区別すべきとする(夏目漱石『文学論』157−8頁)。

 漱石は、「直接経験より生ずるf」と「間接経験より生ずるf」との差異によって、「普通の人事」や「天然界」で留意しない事や「居づらい事」が「間接経験」に「改むる時はかえって快適を生じ」、普通では美しいと思わない事が「文学中に現われる」と「時としては之を歓迎」するものになるとする。漱石は、これを幻惑というのである。そして、こうした二者の「違和感の原因」とは、作者側のFの「表出の方法」と、読者側の「前後を忘却して賞美」し幻惑する態度にあるとする(158−9頁)。

 これについて、岡崎義恵氏は、「この直接経験とは現実体験のことであって、間接体験とは芸術体験(又は美的体験)のことを意味すると私は思ふ。直接経験において不快なものが間接経験において快となる原因は、製作者の『表出の方法』と鑑賞者の『幻惑』とによると、漱石は言ふのである。この『方法』と『幻惑』とは一線の上にあるもので、幻惑させるやうな方法が必要であるに外ならないであろう。文学は感情を動かし、感情的に真なるが如く信じられるものを表現するものである。この感情の質的特性を漱石は快感といふ側から説明せんとして『幻惑』といふことを説くらしい。幻惑とは、現実的に観れば不快なるべきものを、快感に変化せしめるやうな、芸術的体験の特徴をいふのである。これは快感化といふ点を中心として、美化の一面を説くものに外ならないのではなからうか」(岡崎義恵『漱石と則天去私』14頁)としているが、これはほぼ的確であろう。

 さらに、漱石は文学における道徳・倫理の問題を散り上げる。つまり、彼は、@「人事界又は天然界にありて直接経験をなす時のf」、A「間接経験をなす時のf」、即ち「記憶想像のFに伴ふて生ずるf」、若しくは「記述叙景の詩文に対して起すf」とを区別すべしとする(夏目漱石『文学論』158頁)。文学作品の重要現象として、@「一種の感動」をあげ、「此感動なければ・・文学の主要成分たる情緒を欠くが故に此文学は文学たる資格を失うもの」(夏目漱石『文学論』185頁)であり、A「次に考ふべきは善悪の抽出」(夏目漱石『文学論』199頁)であり、善悪の道徳に関わり、「読者が必ず然かすべし」という事はできない。文学は「情緒を主とする」芸術か、道徳を重視すべき道徳かは、「作家の技量と読者の傾向」によるとする。しかし、「文芸は道徳と没交渉なるが故に、いかなる作品を為すも此方面に一顧の注意を払うに値せずと主張するものに至っては、如何に道徳的分子の文学の一大要素なるかを知らざるものなり」と、芸術一辺倒を批判し、「余は茲に善悪観念の抽出を以て文学の或る部分の賞翫に欠くべからざる条件なりと断言す」(夏目漱石『文学論』201−2頁)とする。こうした文学と道徳との関係において、漱石の道徳重視、芸術至上主義批判は漱石文学の特徴を知る上で重要である。

 従って、漱石によれば、ここにも、幻惑は作動することになる。つまり、「不道徳文学は抑も世界に文学あつてより以来在し来り、又文学が存在する限り滅亡するものにあらず。換言すれば吾人は実際に於て道徳的なれども文学上又は文学を味ふ時のみ不道徳なることあり、少なくとも道徳的問題に対し其道徳的分子を忘れ得るものにして、此性質なき人は遂に完全に文学を理会する能はざる奇怪の地位にあるものとす」(夏目漱石『文学論』204頁)と、道徳的分子を忘却させる読者の幻惑作用を指摘する。

 漱石は、『文学論』後半(第四編 第八章 間隔論)では、「文学の大目的の那辺に存するかは暫く措く。其大目的を生ずるに必要なる第二の目的は幻惑の二字に帰着す」(夏目漱石『文学論』475頁)と指摘し、「浪漫派の材を天外に取つて、筆を妖嬌に駆るは鏡裏に怪異の影を宿して、その怪異なるが為めに吾人をして眼を他に転ずる事能はざらしむ。写実派の事を卑俗に籍りて文を担途に馳するは鏡裏に親交の姿を現じて、その親交なるが為めに吾人をして眼を他に転ずるを欲せざらしむ。能はざらしむると、欲せざらしむると興致に於て一ならずと雖ども此効果の幻惑に存するは争ふべからず。幻惑を生ずるの法固より一にして足らず、前段章を分つて講説せるは皆「文芸上の真」を発揮して幻惑の境を読者の脳裏に誘致するの方法に過ぎず。然れども表現に取材に浪漫、写実の両端にわたつて論ぜるは悉く内容の消息なり」と、幻惑法における浪漫・写実の違いを述べている(夏目漱石『文学論』475−476頁)。

 悲劇に対する場合 「読者のfを論ずるに当りて吾人は先づ第一に其数量的に異なるを検し、次に其性質上の差異を検したり。而して今最後に特別の場合として舞台上苦痛の表出に対する読者或は観客のfの特性を説かむとす。即ちかの悲劇に伴ふfの謂なり。悲劇文学は古来より常に巍然たる勢力を有するもの、現に我邦においては劇と言へば必ず悲劇を意味したるが如し」(夏目漱石『文学論』233頁)と、悲劇に伴うfの数量増加を指摘するする。

 そして、悲劇と苦痛の連関を指摘する。つまり、漱石は、そもそも苦痛とは「自己の死物ならざるを證明するもの」であり、「石の如き一塊たらむよりは寧ろ、苦痛を自覚して判然たる生命の確証を得むと欲するは人情なり」(夏目漱石『文学論』237頁)とする。そして、「苦痛は既に目的にあらず、苦痛後に来る快楽が目的なり」(夏目漱石『文学論』240頁)とし、「悲劇は一種の意味に於て苦痛の発展なり。此発展を目撃する吾人は・・只眼前の苦痛に釘付けにせられて遂に目を転ずるを得ざるに至る」(夏目漱石『文学論』245頁)とする。

                       2 文学の科学との相違ー文学の心理学的アプローチ

 こうして、漱石は、「科学と文学との関係」を考察した後に、科学とは異なる、文学固有の特徴について考察する。ここに、物理学に造詣の深い夏目漱石ならではの文学固有論が展開されることになる。

                                   @ 文学の非「知性

 漱石は、「知的方面よりの観察は必しも常に情緒的方面より来れるものと平行に進み得ざること前に述べたる如し。凡そ冷静なる判断より得たる事項の外は何ものも吾人の脳中に容るる資格なしと云ふは、吾人を以てただ理屈一遍に感じ又行動すと誤解する愚人の見なり。静かに思ひ静めて成れる考の外は決して文学に入る可からずと云ふものは、これ根本的に文学の何物たるやを解し能はざる輩と云はざるべからず。文学は上述の如く感情を主脳として立つものなれば、如何に雋理(しゅんり、卓抜な理知)の伏在することありとも、感興の之に伴ふことなくば文学上全くの死文字にして三文の価値だになきこと明かなり」と、文学の主知主義を否定する。

 従って、漱石は、「道学者は文学者の作為するところを見て煙花風月の閑文字(無益な文字)なりと評すれど、吾人文学を修むるものより彼等がなすところを評すれば誠に合理的勃牢の韻文字たるのみ。閑文字とは目前に有用ならざるものを云ふにあらずして人を動かす力なき文字をさすものなり」と道学者の文学批判に反論する。そして、漱石は、「詩歌文章の価値は其合理なると不合理なるとよりは寧ろ其情緒を起すに足るべき事物若くは境遇を捕え得るか得ざるに帰着す。合理なるが故に感興を引き、感興を生ずるが故に文学的材料たるの資格ありとするは可なり。されど不合理なり故に感興を引くことなしと云ふに至りては、これ誠に事実を誣(し)ゆる(歪める)の甚しきものと云ふべし。若しそれ、感興あれども不合理なるを以て開明の今日、文学の一要素たる値なしと云ふは、これ科学と文学と両者を混同したるものなり」と、文学の感興作用を主張する。さらに、「此超自然的現象の如き其不合理なるは余輩といへども、これを認めざるにあらず、されども是等は同時に感興を喚起すべき要素を具有することを是認せざるべからず」(夏目漱石『文学論』132−3頁)と、超自然現象の感興を説くのである。

 漱石は、「吾人は由来種々の能力を有す。而して吾人が是等の能力を適宜に活用せしむるときは一種の快感これに伴うものにして、かの知力の如きも人間の能力重要なるものなるにより、これを適当に満足せしむることは固より愉快なるべきこと明なり。かの科学者の研鑽に報ゆる愉快の一部分の如き正にこれに過ぎず。凡そ第四種の知的材料が文学的内容として価値ある所以も、其一部分はここに存するものなり。されば合理的材料を以て文学的ならずと云ふは誤りやすき言にして、要は喚起し得る情緒の多少によって其文学的内容としての位置を確定すべきものとす。かの浪漫派の特色の如きも亦実にここに存す。彼等は其全身全力を捧げて情緒の誘起につとめ、其極遂に他を顧みるの暇なきに至る」(夏目漱石『文学論』133−4頁)と、文学的内容如何は、知力度ではなく、情緒度によるとする。

 そして、漱石は、「詩人は此幽玄の感情を引き起こさんが為に、予め超自然力の口を通じ予知を読者に吹き込むものにして、即ち予知と名けんよりは寧ろ超自然力のおもわくとも云うべきものを知らしむるのみ」(夏目漱石『文学論』138頁)とする。

 最後に、漱石は、「人生は文学にあらず、少なくとも人生は浪漫派文学にあらず、実際は浪漫的詩歌にあらず。かの浪漫派文学の通弊は単に劇烈なる情緒なる情緒を主とするの結果、往々年少者を誤りて文学其儘を現世に実行せしめんとす」という見解を「過れり」と批判する。そして、漱石は、「人世其物は必ず情緒を主とするものにあらず、又これを主として送り得べきものにあらず。ここに気つかぬは憂ふべきことなり。超自然現象に関しても亦然り。詩は詩なり。人世は人世なり。詩の感興を強て人世に押し広げんと試むるは誠に吾人天賦の知的能力を侮辱したる挙にして、此知能が吾人生存の目的に如何に欠くべからざるものなるかは、此世に於ける知能の発達の跡を尋ねて明なるべし。感情は文学の特に尊重するところのものなること云ふを待たず、されども此文学観をとり来りて直ちに人世に適応せしめんと企つるは、社会を転倒或は退歩の何れかに導くものとす。余は浪漫派の詩を愛す。されどこれを愛するには時として愛するものにして、決してこれを人生に適応せしめんと欲して愛するにあらず。世の文学の弊を説くもの、時に文学者の弊と読者の弊とを混同することなきやを疑ふ」(夏目漱石『文学論』140−1頁)と、情緒を主せざる人世に「詩の感興」を強いることを批判する。

                                   A 科学との相違から見る文学の特質

 意識の特徴 漱石は、「此講義の冒頭に於て意識の意義を説き、一個人一瞬間の意識を検して其波動的性質を発見し、又一刻の意識には最も鋭敏なる頂点あることを示し、其鋭敏なる頂点を降れば其明暗強弱の度を減じて所謂識未なるものとなり、遂に微細なる識域以下の意識に移るものなるを論じたり。而して吾人の一世は此一刻一刻の聯続に異ならざれば、其内容も亦不限刻の聯続中に含まるる意識頂点の集合なるべきを信ず」(夏目漱石『文学論』254頁)と、意識の波動、意識の頂点を説く。

 だから、漱石は、「言語の能力(狭く云へば文章の力は)は此無限の意識連鎖のうちを此無限の意識連鎖のうち此所彼所と意識的に或は無意識的にたどり歩きて吾人思想の伝道器となるにあり」(夏目漱石『文学論』256頁)と、思想伝道という言語能力を指摘する。

 漱石は、この意識の「内容たるFは人により時により性質に於て数量に於て異るものにして其原因は遺伝、性格、社会、習慣等に基くこと勿論なれば、吾人は左の如く断言することを得べし。即ち同一の境遇、歴史、職業に従事するものには同種のFが主宰すること最も普通の現象なりとす」(夏目漱石『文学論』258頁)と説く。

 そして、漱石は、「文学者若くは文学的傾向を有する人は社会の一階級を形成するものなれば其等の人々の心行き、若くは観察法を論ずるに当りては勢ひ此階級と他の階級とを比較して其類似差違を見ること最も便宜なるべし。而して普通は文学に対するに科学を以てすれば、暫く文学者対科学者(哲学者をも含む)につき論ずるところあるべし」(夏目漱石『文学論』259頁)と、文学者という階級の特徴を科学者との比較から解明しようとする。

 科学的Fによる文学的Fの根源的境地考察 漱石は、文学と科学の「知性的」相違について、ピアソン『科学の文法』(W章, Cause and Effect一Probability, 13節 Prebable and Provable)などに依拠して(前掲立花論文)、“How”と“Why”における文学と科学の相違として考察する。

 漱石は、「凡そ科学の目的とするところは叙述にして説明にあらずとは科学者の自白により明なり。語を変へて云へば科学は“How”の疑問を解けども、“Why”に応ずる能はず、否これに応ずる権利なしと自認するものなり。即ち、一つの与へられたる現象は如何にして生じたるものなるかを説き得れば科学者の権能ここに一段落を告ぐるものなり。さて此“How”なる質問に応ぜんとすれば、必ず此與へられたる現象の拠って生じたる径路をたどらざるべからず。故に科学者の研究には勢ひ『時』なる観念を脱却すること能はず」(夏目漱石『文学論』260頁)と、科学は時間的経過を踏まえつつ現象の“How”を叙述することだとする。

 ここから、漱石は文学と科学に相違を導く。つまり、彼は、「文学も亦此“How”の分子なきにはあらず。只だ其科学と異なるところは文学にありては其あらゆる方面に“How”なる問題を提起するの必要あらざることなり。前述の如く“How”なる文字は時間を離るる能はず。而して文学の一部は確かに時を離れ能はざること勿論なり。文学の此一部は其“How”に答ふる点に於科学と毫も異なるところなし。すべての小説、稗史、叙事詩、戯曲等は皆時間を含有するものにして、一つの事件が他の事件を生み、波瀾又波瀾を生じ、或は主人公の運命が幾多の境遇によりて種々性格に発展し来るが如き、すべてこれ“How”の問題に帰着するものとす」と、“How”において文学は科学と重複する。両者を截然と区別する事はできないのである。しかし、漱石は、「文学にありては科学に於けるが如く此“How”を絶えず其念頭におくの必要なし。世に存する物象の相は動にして静止するものあることなし。絵具箱を携へて郊外に出づるものは同じ木、同じ野、同じ空が如何に日光の作用により千変万化するかを知るべし。此の如く常に変化し動揺するものを“How”の眼のみにて観察するは、無限の糸を巻く如く終に尽くる時あらざるべし」(夏目漱石『文学論』260−1頁)と、文学は科学と異なって千変万化するものを対象とするから“How”を念頭におかなくてよいとする。

 しかし、漱石は、「文芸家は此の終局なき連鎖を随意に切りとり、之を永久的なるかの如くに表出する権利を有するものなり。即ち無限無窮の発展に支配せらるる人事自然の局部を随意に切り放ちて『時』に関係なき断面を描き出すの特許を有す。かの画家、彫刻家の捕ふる問題の如きは常に此『時』なき断面にして、これより以外に出づること能はざること明かなり。而して文学は『時』を含有し得るの点に於て画、彫刻よりも範囲広きものなれども、一方に於て『時』を閑却する一時的叙述、或は即座の抒情詩的発動等において画、彫刻と類を同じくすることあれば文学者のFは科学者のFの如く、常に“How”なる好奇心のため、付き纏はるるものにあらず」」(夏目漱石『文学論』260−1頁)と、文芸家は“How”に付きまとわれずに時を切断して絵画、彫刻と同様に表現できるとする。

 これに対して、「或人」は、「文学に時間を含むまざる種類あることは勿論のことなるべきも、凡そ文学の最高傑作とも称すべきものは、皆此“How”の問題に触れざるものなきにあらずや。叙事詩を見よ、戯曲を見よ、或は小説を見よ、何れも皆“How”を繞りて其作に対する興味の大部分を構成するにあらずや」と反論する。だが、漱石は、これに「一面の理はあれども、元来、含まれたる時間長きは決して其作品の価値を定むるものにあらざること明にして、要は賞翫者の対度如何によるのみ。一時的の消えやすき現象を捉へて快味を感ずる人は文学者にありても彫刻家、画家に近きものなり。吾が邦の和歌、俳句若くは漢詩の大部分の如きは皆此断面的文学に外ならず。故に其簡単にして、実質少なき故を以て其文学的価値を云々するは早計なりと云ふべし」(夏目漱石『文学論』263−4頁)と、弁明する。

 こうして、漱石は、、英文学論にとどまらず、幼少期から慣れ親しんできた漢文学・国文学などをも包摂して、普遍的な文学論を展開する鍵を見出したのである。漱石が世界で最初にこれを見つけたのである。この時の漱石の喜び、達成感、充足感が如何に大きなものであったかは容易に想像がつく。訪英後、約半年後のことであった。

 なお、漱石は、こうした文学論の講義の次に、英文学の作家論の講義(『文学評論』)も持っており、そこでは“Why”に神や人間を登場させて、所論を補強している。つまり、彼は、「其道の人は科学を斯う解釈する。科学は如何にしてといふこと即ち How といふことを研究する者で、何故といふこと即ち Why といふことの質問には応じ兼ねるといふのである。例へば茲に花が落ちて実を結ぶといふ現象があるとすると、科学は此問題に対して、如何なる過程で花が落ちて又如何なる過程で実を結ぶかといふ手続を一々に記述して行く。然し何故 (Why) に花が落ちて実を結ぶかといふ、(然かならざるべからずといふ) 問題は棄てて顧みないのである。一度び何故にといふ問題に接すると神の御思召であるか、樹木が左様したかったのだとか、人間がしかせしめたのだとか所謂 Will 即ちある種の意志といふ者を持て来なければ説明がつかぬ。科学者の見た自然の法則は只其儘の法則である。之を支配するに神があって此神の御思召通りに天地が進行ずるとか何とかいふ何故問題は科学者の関係せぬ所である。だから至って淡白な考で研究に取りかかると云っても宜しい。偖此如何にして即ち Howといふことを解釈すると、俗にいふ原因結果といふ答が出て来る。然し前に述べた様な訳だから此原因結果とは或現象の前には必ず或現象があり、又或現象の後には必ず或現象が従ふといふ意味で、甲が乙を然かならしめた杯といふ意味ではないのは無論である。それで此原因結果を探るには分解をする」(夏目漱石『文学評論』春陽堂、明治42年、522−3頁[国会図書館デジタルライブラリ])とのべている。

 漱石にとってHowとWhyとは、こうした根源的境地の問題なのである。これに気が付かないと、フォスター『小説とは何か』(米田一彦訳、ダヴィッド社、1969年)を参考にして、HowとWHYをストーリー(「時間的順序に配列された諸事件の叙述」」)とプロット(因果関係を重視する「諸事件の叙述」)で説明し、「ストーリーならば、<それからどうした?>といいます。プロットならば、<なぜか?>とたずねます、これが小説のこの二つの基本的な違いです」(石原千秋『漱石の記号学』26頁)などと、ストーリーとプロットの関係に矮小化することになる(石原千秋『漱石の記号学』27頁)。漱石のいう、HowとWHYとは、もっと根源的な問題、文学の根源に関わっているのである。

 そして、普通には文学と科学とは違うとされているから、「文学の歴史」や「文学の批評」も科学ではないと思いがちだが、これは誤解であるとする。文学史や文芸批評は、文学を「客観的に研究の材料として取扱ふ」から、「吾人の態度は恰も化学者が自然の現象を前に置いて夫を研究し始めると同じ事になる」(夏目漱石『文学評論』524−5頁)とする。「文学上の作物も亦科学的態度(好き嫌いに関係なく冷静で非鑑賞的・批判的態度)を以て之に臨むことができる」(夏目漱石『文学評論』527頁)ともする。だが、これは、研究対象へのアプローチの態度が科学も文学も客観的だという科学的態度の前提条件にすぎず、内実的な理解に基づく科学の前提条件とは言えず、自然科学に疎い文科系受講者への通俗的譲歩に堕してしまったというべきであろう。

 では、漱石は、こうした科学に関する“How”という発想はどこから入手したのであろうか。これについて、立花氏は、「一般の科学者は・・ 原子説のような仮説を立て “Why”に対する説明をそれに求めて研究を進めていた」が、19世紀後期以降、キルヒホッフ(G.R.Kirchh、ドイツ), マッハ (E. Mach,、オーストリア)、ヂュエム (P・M・ M・ Duhem フ ラ ンス)、オストワルド(F・ W・Ostwald、ドイツ),、ピアソン (K・ Pearson、イ ギリス) らは、経験論に立った科学を提唱しだしたと指摘している。彼らは、科学を「“Why”に対する“説明”を求めるものではなく、“How”に対して “記述”するもの」と見て、「一般に説明科学と見なされていた物理的科学」に対して「このような意味の記述科学と解釈する立場」を提唱し、記述学派と言われた。なお、『大辞林』(三省堂、1989年)では、いまでも物理学・化学をを説明科学としている。

 これを踏まえれば、漱石の科学はまさしく記述学派の科学に対する態度を表明したものであり、これらの記述学者の中で、漱石が最も影響を受けたのは池田菊苗(明治34年5月にドイツからロンドンに来た)の紹介したピアソン思想(池田はマッハと同じ思想で書かれたピアソソの『科学の文法』を愛読)であり、立花太郎氏はこの点を詳細に論証している(立花太郎「夏目漱石の『文学論』のなかの科学について」)。そして、立花氏は、漱石が、「現場の科学者の科学に対する常識的解釈には一言も触れず、あえて記述学派の科学者(特にピアソン)の科学に対する解釈を採って、 自己の科学としたのには、それなりの理由と経過があるはず」(立花太郎「夏目漱石の『文学論』のなかの科学について」)であるとしている。それは、漱石にとって、「 科学者の見た自然の法則は只其儘の法則である。之を支配するに神があって此神の御思召通りに天地が進行するとか何とかいふ何故問題は科学者の関係せぬ所である」が、文学者は自然に対して“Why”を問題として、神や人間意志を登場せるという違いを整合的に説明してくれたからであろう。

 これこそが、十年来の漱石の文学上の悩みを解決してくれたものだったのである。これで漱石の文学上の悩みは吹き飛んだのである。ただし、これは未だここでは十分に煮詰まってはおらず、後に、漱石はこうした記述学派の科学それ自体を言及することなく、「文芸の哲学的基礎」(これはここを参照)、「思い出す事など」(後述)などで地球科学的にこの過程を具体的に考察して、これを補完している。それは、これが漱石の文学の立脚点であり、則天去私の境地だったのである。漱石は晩年に弟子らに則天去私の境地を語ったとされているが、その根源はすでにここにあったのであり、それを受け入れる素地は既に幼少年期にあったということである。こうした素地、根源が、齢を重ねるともに多様な芸術的表現をとっていっただけであり、晩年に漱石それをは則天去私と表現したということである。

 なお、岡崎氏は、「『文学論』の大部分をなす所の個人心理の説明は、・・根源の究明を欠いているため、経験心理学的事象の羅列に終わったかの如き観を呈している」が、「もしこの個人心理の動きも亦『天』意に帰すると考へ得るならば、結局この『文学論』は、一個の則天去私の芸術論となるべきものであったと思はれる」が、「『文学論』時代にはその用意は十分でなかった」(岡崎義恵『漱石と則天去私』75頁)とされる。だが、漱石は上述のように「心理」、文学の「根源」はしっかりと究明していたということである。

 科学者と文学者の「解剖」態度の差違 次いで、漱石は、「文学者、科学者間の差違」について「其態度」から考察する。つまり、彼は、「かの物理学者の所謂“Conceptual Discontinnity of Bodies”(物体の概念的中断性)の議論を見よ。其理由に曰く、凡ての物体には弾力あり、空気の如きも、これを円とうに入れて圧搾することを得べし、これ凡て物体の質は精密の意味に於て不断的にあらざるを證するものなりと仮定し得る所以なり」としているように、「科学者が事物に対する態度は解剖的」とする。科学者は「水を分解してH?Oとなすとき、彼等の要するところのものはHとOにしてH?Oより成立する水其物にあらざるなり」とするのである(夏目漱石『文学論』265頁)。

 それに反して、「文学者の解剖」は、「全く肉眼的にして一物を組織する直線、円形の甄別(けんべつ、はっきり区別する)は其本領なれど、これより更に一段を溯りて自然界の線が幾何学上有効なりや否やは決して其問ふところにあらず。彼等はただ感覚印象より真偽を決するが故に、これ以上に分け入れる科学的真は却って偽となることあり。彼等にとりては日は東より出でて西に没するなり。地球が太陽の周囲に回転するに非ざるなり。・・文学者の行ふ解剖は常に全局の活動を目的とするものにして、各部として、各部を吟味するが如きは全く此目的を助長するの効果あって始めて存在を許すべきのみ。Ibsenの劇を通読する際吾人は彼が非凡なる技倆を以て作中の人物を一々に書き分けたる明晰なる解剖力に、一驚を喫すべきも、これとても要するに得たる各部的知識を以て各性格を完全に組み立てむとする方便に外ならず。如何に精巧なる解剖なりとも、その全局の印象に交渉なきか、又は之を妨害する傾向を有するものは到底文学上労力に相応する効果を収め能はざるべし」と、科学的真とは無関係に感覚印象を優先し、「全局の印象」を重視すると説く(夏目漱石『文学論』265−8頁)。

 漱石は、「George Eliotは泰西の小説家中一流に位すべきものにして、特に其知的方面に於ては殆ど無比と云ふて可なるが如し、されば其作品中性格の解剖にはDickensの通弊たる不都合なく、またScottの如き散漫の箇所なけれど、如何せむ時に其論理余りに微に過ぎ、小説は作者の単純なる道具にして、其中の人物は宛然傀儡たるの観あることあり、即ち其一挙一動悉く作者の理論に伴ふものにして活如たる自由の気を欠くこと屡なりとす。是他なし、精刻なる解剖を極度迄進むるにも拘はらず、解剖せられたる諸要素が解剖せられたる迄にて、組織的に吾人の注意に訴へざれる(られざる)が為のみ」(夏目漱石『文学論』268頁)と、エリオットの解剖を評価し、ディケンズやスコットの解剖の拙劣さを指摘する。

 これに関連して、漱石は、容貌の描写について、「鼻は何、眼は何と一々精細に叙述」することは「各部の成功を計りて全局の印象を後にしたる弊なり」(夏目漱石『文学論』269頁)とする。だから、漱石は、「文学者の解剖は解剖を方便として総合を目的とす。総合の目的を達せざる時は細巧なる解剖も殆んど無効に帰す」とし、「ある一部の人々をして単純なる記述の有力なるを唱道せしむるに至る」事に対して、「複雑なる観察の発達せる今日に於て一円に単純なる記述を重んずるは時機に通ぜざるの甚しきものと云はざるべからず」(夏目漱石『文学論』277頁)と批判する。彼は、「文学者は解剖を必要とす。但し単なる解剖にとどまる可からず。解剖せる諸項の下に掌を指すの徴を示して、其微なるものが更に合して一団の全精神となって脳裏に闖入せざる可からず」と説くのである。

 以上が、「解剖につき科学者と文学者と其態度の差異」の大略であるが、漱石は、「ここに一言すべきは科学者とても時に物の全局を描くかむと努むることなきにあらず」ことだする。その例証として、漱石は、「説明科学がある物体の定義を立てて、之を正確に述べむとするが如き」ことをあげ、「然らば此場合の科学者の態度は文学者の普通とるべきところのものと同一なりや否や」と自問する。そこで、彼は、「同じく物の全局を写さむとする場合に於ても、科学者は懸念を伝へむとし、文学者は画を描かむとす。換言すれば前者は物の形と機械的組立を捉へ、後者は物の生命と心持ちを本領とす。尚科学者の定義は分類の具に供せらるれど、文学者の叙述は物を活さむが為めの用に過ぎず。科学者は類似をたどりて系統を立てむと欲し、個々の物体に左したる興味を有するににあらず、文学者に至りては其目指すところの物の秩序的配置にあらずして其本質にあり。されば物の本性が遺憾なく発揮せられて一種の情緒を含むに至る時は、即ち文学者の成功せる時なりとす。従って文学者があらはさんと力むる所は物の幻惑にして躍如として生あるが如く之を写し出すを以て手腕とす。科学者の産出は特性の目録にして、此目録より成立せる物体の活動の実況にあらず」(夏目漱石『文学論』281−2頁)と、物を正確に述べる際における「科学者と文学者の相違」を指摘する。

 最後に、漱石は、「以上文学的及び科学的叙述の区別に関しては、Winchester,Principles of Literary Chriticism(52頁以下)に類似の弁論あれば就て看るべし」(夏目漱石『文学論』285頁)と付言する。

 その他の相違 さらに、漱石は、「科学者の欲するところは概括にあり。細々別々の場合を綜合して之を統ぶる主義、法則の発見に存す。此故に彩色なく音響なく感情あることなし」だが、「文学者は此等の冷かなる主義法則を以て満足すること能はず、これに肉を付け血を通はして広くこれを世に示さんと欲す」から、「科学者と文学者は此点に於て理学者対工学者の関係に似たり」(夏目漱石『文学論』286頁)とする。

 次に「注目すべき」は、「科学者殊に物理学者が物理界の現象を時間、空間の関係に引き直さむとすること」であり、具体的には、「其方便として彼等は自家特有の言語を使用す。其言語の重なるは所謂数字と称する記号なり。彼等は吾人が眼に映ずる色彩、耳に聴く声音を此種の言語に改めて・・、これエーテル、或は空気の振動なり」とか、「彼等の寒暖を叙するとき、又此種の言語を用いて、・・列氏の幾度なり、華氏の幾度なり」と表現するとする。

 漱石は、これに付言して、「文学者も亦類似の語法を時に用うる事もあり。されど文学者が用うる数字は科学者のそれの如く有臭有味のものを化して無味無臭となすが為にあらず。熱あり、光あるものを冷静にして空洞ならしむるが為めにもあらず。無を有とし、暗きを明に化する手段に外ならず。文学者は常に此手段に由りて触れ難き或物を明所に摩擦せしめんとす。かの画家Wattsの傑作『希望』を観るに、形なく影なき茫漠たる抽象的の『希望』なるものを捉へ来って巧みに之を具体化せるを見る」(287頁)とする。文学者が科学者と同じ語法を用いたとしても、やはり文学と科学は異なるというのである。

 漱石は、以上を「約言」して、「文学者は香なき者に香を添え、形なき者に形を賦す」が、「科学者は形ある者の形を奪ひ、味あるものの味を除く。此点に於て文芸家と科学者とは全く反対の方向に事物を翻訳するものにして右と左に分れて各其分担の義務を果たすと云ふも不可なかるべし。従って文学者は感覚或は情緒をあらはさんが為めに象徴法を用い、科学者は感覚又は情緒と全く無縁なる其独特の記号により事物を記述せんとす」(夏目漱石『文学論』294−5頁)とするのである。

                                B 「真」をめぐる文芸と科学との相違

 漱石は、「凡そ文学者の重ずべきは文芸上の真にして科学上の真にあら」ざる故に、「必要の場合に臨みて文学者が科学上の真に背馳するは毫も怪しむに足らざるなり」と、文学上の真が科学上の真と背馳することもあるとする。だが、「文芸上の真とは描写せられたる事物の感が真ならざるを得ざるが如く直接に喚起さるる場合を云ふに過ぎ」ざるものであり、例えば、「一代の天才Milletの作品中に農夫が草を刈るの図あり。ある農夫之を見て此腰付にては草刈る事覚束なしと評せりと聞く。成程事実より云へば無理なる骨格なるやも知れず。去れども無理なる骨格を描きながら、毫も不自然の痕迹なく草を刈りつつあるとより外に感じ得ぬ時に画家の技は芸術的真を描き得たりと云ふべし」であり、この様に「芸術的真を描き得たりとせば、科学上の真を発揮し得たりや否やの問題は遂に観者を煩はすに足らざるべし」とす。従って、「文芸上の真と科学上の真と其問に微妙の関係あるは勿論なれど文芸の作家は文芸上の真を其第一義とすべく、場合によりては此文芸上の真に達し得むが為めに甘じて科学上の真を犠牲とするも不可なきにちかし。文芸上の真にして科学上の真に背くもの一にして足らず」(夏目漱石『文学論』302頁)とするのである。

 そして、漱石は、「余は前篇の所論により文学者の覚悟を稍分明ならしめ得たりと信ず。約言すれば科学者が理性に訴えて黒白を争はんとするに引きかへて、文学者は生命の源泉たる感情の死命を制して之を擒(とりこ)にせんとす。科学者は法廷の裁判を司るが如く、冷静なる宣告を與ふ。文学者は慈母の取計ひの如く理否の境を脱却して、知らぬ間に吾人の心を動かし来る。其方法は表向きならず、公沙汰ならずして、其取捌は裏面の消息と内部の生活なり」(夏目漱石『文学論』308頁)と、改めて文学と科学との相違を「裏面」「内部」という観点からとらえ直す。そして、文学では 「これら内部の機密は種々特別の手段によりて表出せらるるものにして此等の手段を善用して、其目的を達したる時、吾人は一種の幻惑を喚起して、そこに文芸上の真を発揮し得たりと称す」とするのである。この「幻惑を喚起」するものこそ、「文芸上の真」だというのである。

 これに対して、岡崎義恵氏は、「文芸上の真というのは真らしい感じ、生命の躍動、具象的なものといふ方向に求められるらしいが、科学上の真から全く自由であるといふのではなく、科学的真を多く破らざる程度であるとするらしい。この点は少し不徹底なやうである。全く科学的真とは異なる領域を文学に認めるのか、科学的真の許す範囲で自由な幻惑が行はれなければならないとするのか十分わかりかねる所がある。若し一世の趣味が徹底的に『誇大法』『省略』『組立』等を許さず、対象の認識は純粋に科学的でなければならないとするに至れば、文芸の世界といふものは無くなるのでもあらうかと思はれる。文芸は科学の勢力の支配的になるまでの一時的存在であるかとも受取られるのである」(岡崎義恵『漱石と則天去私』宝文館、昭和43年、11頁)と批判している。しかし、漱石は、真においても、科学に対する文学の固有性をしっかりと指摘しているのである。

                                       C 文学の固有性ー修辞学

 漱石は、「既に文芸上の真を論じたる」以上、次には「此真を伝ふる手段を説かざる可からず」とし、「由来此手段を講ずるに所謂修辞学なるものあ」るとする。だが、「坊間(世間)に行はるる通俗の修辞学は徒に専断的の分類に力を用い、其根本の主意を等閑視する傾向あれば其効著からず」と、通俗的な修辞学を批判する。その上で、漱石は、「凡そ文芸上の真を発揮する幾多の手段の大部分は一種の「観念の連想」を利用したるものに過ぎず」として、以下「全く此主張を本として組み立て」(夏目漱石『文学論』308−9頁)るとして、文学固有の表現法として修辞学を分析的に詳細に述べる。

 投出語法 「吾人は動ともすれば自己の情緒を移して他を理合せんとする傾きあり。余は今これを仮りに投出語法(Projective language)と名く。即ち、自己を投出(project)して下界を説明する手段を意味するものにして、所謂擬人法又はProsopopoein等は此内に含まれるべきものなり」(夏目漱石『文学論』310頁)とする。

 投入語法 投入語法とは、「人類の行為、状態の印象を明晰ならLむるため、 外物を投入し来る」ものであり、「所謂投出語法と全く其径路を異にして自己を解くに物を以てする種類の聯想」である。従って、投出語法、投入語法とは、「正反対する」ものであり、故に「両者を等しく文学的手段として併置するは人をして一種の疑問を懐かしむるやも計るべからず」だが、「余は投出語法を文学的なりと信ぜしが如く、今亦此投入法を目して文学的なりと主張せんとするが故に、此両者が右と左に背馳するにも拘はらず、其目的に於て一致する所以を述べて先づ読者の疑を解かんとす」(夏目漱石『文学論』324頁)として、説明を加える。

 この語法では、「詩人は美人を解釈するに恰好なる感覚的材料を用いて或は花に或は月に、凡て美しき外物に比」(夏目漱石『文学論』329頁)したりするのである。

 隔離聯想 ここでは、「己を以て物を解するを主脳とする投出語法」でも、「物を以て已に適応するを眼目とする投入語法」でもなく、「全く自己なるものを離れたる外物間の聯想」、つまり「感覚的材料を用いて感覚的材料を解釈するものを正式の形様とす」(夏目漱石『文学論』333頁)ることを述べる。

 従って、これは、「同種の材料中にて彼我の類似を発見するの工夫に過ぎざる故、其聯想の比較的容易なるだけ、其効果も亦前両者の如く、際立たず。此点より見れば多少不利の点あるが如きも適当なるものに至りては便宜なる文学的手段として遂に作家の閑却する能はざるものなりとす」(夏目漱石『文学論』333頁)ともする。

 以上の「投出語法」、「投入語法」、「自己と隔離せる聯想」は、自己と物、物と物との間の共通性や類似性にに基づき、二つの文学的材料を聯想させる修辞技法である。この三技法は、「もし之を委却すれば文学は決して存在し得べからず」と言われる程に重要な修辞法であるとする。

 滑稽的聯想 漱石は、ここで、「滑稽の趣味となって文学に現はるる」聯想法を述べ、「其材料の範囲は前三者と毫も異なるところなきも、上述の如く二個の材料を連結して両者の間に予期し得べき共通性を道破したる時、文学的価値を生ずるに非ず。意外の共通性により突飛なる綜合を生じたる時、始めて其特性を発揚するものなりとす」とする。されば、「前三章の諸聯想法は共通性を相互に結合する作用を以て其主眼とし、ここに説く聯想は多少の共通性を利用するの結果、之を通じて思ひも寄らぬ両者を首尾よく繋ぎ合せたる手際を目的となすものなり。・・此種にありては、僅かに皮相浅薄なる類似にて事足るのみならず、時には単に文字上の連鎖のみにて尚ほ且多少の興味を喚起し得るものなり」(夏目漱石『文学論』352−3頁)とする。

 この滑稽的聯想は、 「口合 (pun)」 (駄洒落だが、字音の同じ言葉を使って、「一般に通ずべき真理を通じがたき特別な場合に応用」する事)と、「頓才」=「機智」(字音の同じ事ではなく、論理的知力で滑稽的興味を喚起すること)とに分類され(夏目漱石『文学論』354−367頁)、後者の頓才はその「知的要素、加重の極に達する時は、或は謎となり、或は所謂Conumdrum(頓智問答)に近きものとなる。之と共に其文学的価値は著しく減退する事論を待たず」(夏目漱石『文学論』371頁)と、加重な頓才は文学的価値を減退させるとした。

 漱石は、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』などでは、この「滑稽的聯想」を滑稽な名前(前者では珍野苦沙弥[猫とともに漱石の分身]、迷亭・水島寒月・越智東風・八木独仙[この四変人も漱石の分身]珍野とん子・泥棒隠士など、後者では山嵐・赤シャツ・野だいこ・うらなり・狸など)をもつ登場人物の滑稽な行動を卓抜に駆使して、文学的魅力を増加させていたのである。岡崎氏は、「大掴みに言へば、迷亭は美、寒月は真、東風は善、独辿は壮といふ風になり、これは『文学論』の内容の分類における四種(感覚F・知識F・人事F・超自然F)にも当てはめることが出来る」(岡崎義恵『漱石と則天去私』82頁)としている。

 調和法 「上述の聯想法四種のうち前三者は類似をあらはす為に二個の分子を結合し、第四は類似の連鎖を通じて非類似のものを(滑稽と)聯想するもの」であったが、「今此前者を拡張すれば、ここに説く調和法となり、後者を布衍すれば次章に論ずべき対置法となる」(夏目漱石『文学論』372−3頁)とする。

 中には「尋常の調和法のみにあらずして、時には萬緑叢中 紅一点的の配合を有利と認めざる可からざるものがあり」、「是に於てか調和法は流れて(次述の)対置法に入る」(夏目漱石『文学論』399頁)とする。

 対置法 漱石は、「同種もしくは類似のfを偶する技巧を調和法と名づけた」のに対して、「異種、殊に反対のfを配合する場合を対置法と云ふべし」とする。そして、「調和法は第一、二、三種聯想法の処体にして、対置法は第四種聯想法を拡大せるもの」であり、「第四種聯想法とは、ある共通性の助に由り、意外のニ物を連結して其差異を対照するを主眼とするが如く、対置法も亦同様の方法によりて一種の興味を喚起するを以て能事とす」(夏目漱石『文学論』399頁)とする。

 そして、この対置法に三種あり、「第一種はaのfを和ぐるにbのfを以てするもの、第ニ種は対置の結果(即ち感興)自から調和の結果と一致するもの、第三種は前述、第四聯想法に似て、多少の滑稽趣味を帯ぶるもの」とする。「かりに第一を緩勢法、第二を強勢法、第三を不対法と名く」(夏目漱石『文学論』401頁)とする。

 写実法 以上、漱石は、「前段に於て吾人の用いる文学的手段と名くべきもの六種を挙げて」、「首に四種の聯想法を説き、次ぎに調和、対置の法に論及したるが故に、更に章を改めて写実の一法を弁ぜんと欲す」(夏目漱石『文学論』436頁)とする。

 漱石は、「凡そ文学の材料となり得べきものは(F+f)の公式に引き直すを得べしとは、本論の冒頭に於て説けるが如し。而して上来点検し来れる六種の手段とは此材料が単に(F+f)となって孤立せず、之に加ふるに(F´+f´)なる新材料を以てして、両者の結合より生ずる変化の類目を比較的に組織立ちたる方法によりて調査したるに過ぎず。故に此六種に共有なる特色は一材料を表現するに他の材料を雇うにあり。少なくとも二個以上の材料なきとき此手段は成立せざるにあり」とする。だが、漱石の言う写実法とは「世間の予期する所のものとは異なるやも知る可ら」ざるものなのだが、「文学的手段の一つ」として、これらの「型中」に「其意義を限らざる可らず」(夏目漱石『文学論』437−8頁)とする。

 漱石は、「もし一人あって現実社会の表現を眼前に活動せしめんとせば、 勢是等の語法より得る便宜を犠牲に供して、 自然に吾人の耳に入る表現法 (平凡なるにも関せず) を用ゐざる可からず。 之を写実法と云ふ」(夏目漱石『文学論』440頁)とする。これは、「自然に吾人の耳に入る表現法」だから、意図的・芸術的に写実するのとは趣が異なるかもしれないというのである。その意味では、写実法は、「技巧が介在しないかのように自然に見せる技巧」(木戸浦豊和「夏目漱石『文学論』の修辞学」)だという見解もある。こうした写実法は、漱石が友人正岡子規と切磋琢磨した俳句が影響しており、「自然に吾人の耳に入る」などは一万年余の縄文自然芸術の土台が作用しているともうえよう。

 ここまでは、主として個人的心理を中心としていたが、最後に漱石は個人的心理の集合した社会的心理を扱う。天に関心をもち、日本の近代化・開化に批判的な漱石としては、社会心理学はドロップできない項目である。

                                      D 集合的Fー社会的・集合的心理

 文学者のF 以上、漱石は、まず「吾人の意識中より文学的材料となり得べきものの性質を限りて、幾多の例証に之を説明」し、次いで「此等の材料を彼此比較考量して、其特色より之を四種に分類」し、「之を分類せる後、是等の材料中に起る相互の関係を論述し、かねて表現の方法として彼此代用し、甲乙和合するの道を講じ、遂に表現より逆行して取材の領域に入」り、「吾人は其中間に於て文学的材料の意識に上る事多き文学者のFを論じて、科学者のそれと対置」したとする。

 それを踏まえて、「此編に詳論せんとするは、此記号の消息Fなり」(夏目漱石『文学論』511頁)とする。つまり、漱石は、以上の考察を踏まえて、個人的意識の「消息」、つまり「盛衰」動向ともいうべき社会的意識=集合的Fをとりあげる。漱石は、既にこの集合的Fについては、第1編第1章、第3編序文でも取り上げていたが、最後にこの一篇をもうけたのである。

 集合的Fの限定 そこで、漱石は、「個人と個人との間に起る差違」、「一国民と他国民との間に起る差違」、「古代と今代と、もしくは今代と予想せられたる後代の差違」、「先に述べたる文学者と科学者との差違」など、「時間の差違を含み、空間の差違を含」む「Fの差違」を述べる。しかし、「Fの差違はかくの如く複雑にして多面多様」なので、ここでは、「文学の事」に限定し、「文運消長の理、騒壇流派の別、思潮漲落の趣を幾分か解釈し得れば足る」とするのである(夏目漱石『文学論』512頁)。つまり、漱石は、考察の対象を集合的Fの文学の事、つまり文学的集合Fに絞り込むのである。

 文学的集合Fの理法 漱石は、ここでFを復習し、@「文学的材料にして意識のうちに現はるるものは、或感情を有せざる可らずとの条件なるを以て、文学的Fは必ず(F+f)の公式を具ふる結果を示」すが、A「(F+f)はFの一種なるを以て、単にFと云ふも、fを伴はずと付記せざる限りは文学的Fを含むと見做すを妨げ」ず、「吾人は一分時に於て得たるFを拡大して、一日一夜、半歳、五十歳に亘って吾人の意識を構成する大波動に応用して、個人に於ける一期一代の傾向を一字のFに現はすの便宜なるを説」き、「更に一代を横に貫いて個人と個人との共有にかかる思潮を総合して其の尤も強烈なる焦点を捕へて、之を一字のFに縮写するの至当なるを説」き、「此編に論ぜんとするは主として此集合Fの類別、推移、変遷に関す」とし、B「文学的集合Fも亦理法によって支配せらるるを以て円柄方鑿(丸い柄に四角い穴)の矛盾を生ずる憂なきを信ず。且つ此集合的Fは個人の一分時に於るFの意美を拡大せるものに過ぎざるを以て、後者に関して云ひ得べき理法は特別の場合を除くの外移して以て前者に適用し得べきものとす」(夏目漱石『文学論』513−4頁)とする。

 集合的Fの心理学的影響者 漱石の個人心理学研究に影響を与えた心理学者はウィリアム・ジェームズであるが、小倉修三氏は、「<集合意識の推移>という発想は、ジェームズの<意識の流れ>説を借りているかに見えて、実はジェームズのそれとはまったく異質なものといえる」(小倉修三『夏目漱石 ウィリアム・ジェームズ受容の周辺』有精堂、1989.8)と指摘した。では、誰の影響を受けたのか。

 藤尾健剛氏は、こうした「集合的F」概念には、「群衆が「暗示」や「感染」に支配されるとのル・ボンの学説(『群衆心理』1895年など)や社会は「模倣」なりとのタルドの社会心理学の理論の影響」があったと指摘する(藤尾健剛「夏目漱石『文学論』中の「集合的F」に関する研究」[1995年度科研費実績報告書のHP])。明治維新の渦中に生まれた漱石は、フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンがフランス革命やナポレオン統治の時期の「群集心理」の特徴と功罪を考察したことに興味をもったのであろう。

 一方、佐藤深雪氏は、「漱石は、留学中の1902年に啓発を受け、それをもって日本へ帰り」、チャールズ・サンダース・パースの哲学、ウィリアム・ジェームズのプラグラティズムの鉱脈を掘りあてて「旧大陸ヨーロッパの観念論を根底からくつがえす真にアメリカ的な哲学」たるプラグマティズムに引き寄せられたとする。それは、パースが「過去からの暗示(習慣性)と、未来のさまなまな可能性のなかから当てずっぽうに(偶然性)一つを選んで引きよせる(自発的)暗示とがあわさってアブダクション(仮設的推論)が成り立つ」とし、「暗示の法則とは、パースの推論を特色づける第三の推論形式であるアブダクションであ」る。つまり、「習慣・偶然・自発之三極構造を持のがアブダクションであ」り、漱石が『文学論』で示した予期・突然・自発の三極構造による暗示法則と類似するからだとする。そして、氏は、「パースと漱石両者に共通するこの三極構造によって、受動的(偶然)でありながら同時に能動的(自発)でもある人間の自由が確保され」、「この法則に従えば、自己本位でありながら同時に則天去私であるという長く漱石研究の難問となってきた概念は、人事を尽くして天命を待つという中国の諺とよく付合して考えることができる」(佐藤深雪「夏目漱石とプラグマティズムー集合的Fとは何か」Hiroshima Journal of International Studies,Volume20 2014)としている。

 漱石は、文学を科学的に創造するために心理学に着目したのであるが、その心理学が個人的人間を対象にするか、集団的人間を対象にするかで異なっていたのみならず、社会心理学でも革命と平時では異なっていた事に気づいたということであろう。ル・ボンの群衆心理学が討幕の心理に関わっていたとすれば、パースの社会心理学は復古王政による開化の心理に関わり、それらを天が暗に按配しているともいえようか。


                                    @ 一代に於る三種の集合的F

 漱石は、「意識と云ふは意識の焦点(即ちF)なる事は言ふを待たず」だが、「内容の形質」において、「一代に於る集合意識」は、模擬的意識(嗜好・主義・経験において「他を模倣して起る」)、能才的意識(「能才的Fは大衆に先だつ事十歩二十歩にして、大衆の到着すべき次回の焦点に達し、顧みて大衆を靡くを常とす」)、天才的意識(「能才よりも一歩の早きに時勢を覚知」し、「幾多の波動を乗り越えてF′′に駆け抜け」る天才意識)に三大別されるとする(夏目漱石『文学論』513−525頁)。この「一代に於る集合意識」とは、社会に流布する時代思潮、パラダイムともいうべきものである。

 そして、漱石は、「一時代の意識を横断して、類別せる三種に形質上の説明を與へ」(夏目漱石『文学論』538頁)るのである。

                                       A 意識推移の原則

 この章では「一時代の集合意識が如何なる方向に変化して、如何なる法則に支配せらるるかを論」(538頁)じ、@「一時代に於る集合意識の播布は暗示の法則に由って支配せらる」とし、Aでは意識の推移について、(い)「有力なるS(刺激)を加へざるときは、Fは自己の有する自然の傾向に随ってFに移る」、(ろ)「Fが自己の傾向に従って尤も容易にF′′に至る場合は(い)なりと雖ども、然らざる場合に在っては尤も抵抗力少なきF′′を択んで之に移るを常とす」、(は)「Fに一定の傾向あるとき、全然此傾向に従って(い)の発展をなす能はず、又は幾分か此傾向を満足せしめて(ろ)の発展をなす能はずして、無関係なる、もしくは性質に於て反対なるF′′に推移する事ありとせんに、此F′′はFの傾向を無視するの点に於て、しかく強烈ならざる可らず」(夏目漱石『文学論』538−546頁)と述べる。意識推移において、漱石は、穏やかな自然的推移と、強烈な革命的推移をあげるのである。

 以下、漱石は、「一時代に於る集合意識の播布」を支配する「暗示の法則」を敷衍する。

                                         B 原則の応用

 原則の応用(一) 漱石は、ここでは、「前章に於て得たる原則の二三を事実に応用して、集合意識の推移を例証」(552頁)しようとする。

 そこで、漱石は、ここで、まず、暗示について、「暗示は自然なり又必要なり。一般の歴史を読むとき吾人はある一代の活力発現に異様の特色あるを認むべし。単に一般の歴史のみならず、文学史に於ても此現象の顕著なるは疑ふべからざるの事実なり」(夏目漱石『文学論』552頁)とする。

 原則の応用(二) ここでは、漱石は、「適当なる新しき暗示に接せざる時、吾人の意識は約束的の内容を約束的の順序に反復す」とし、「此原則を挙するに当って(二章=A)吾人は既に二三の零砕なる実例を示」したので、「此章はとくに之を詳述して暗に第五章(=D)の地をなすを以て目的とす」(夏目漱石『文学論』569頁)とする。

 原則の応用(三) 以上、漱石は、「原則の応用」(一)で「新しき暗示の自然と必要とを述べ」、 「原則の応用」(二)で「予期の自然と必要とを述べ」、「両章に説く所の共に自然にして必要なるを知る時、吾人は一面に於て新を追はんと欲するの念と、他面に於て旧を慕ふの念とを兼有するを悟るべし」とする。そして、漱石は、「此両傾向が同時に活動して意識の波動に影響を及ぼす事あらば、此両傾向に支配せられて出現する頂点の内容は論理上」、「全然新たなるを得ず、全然旧なるを得ず。新に移らんとするとき旧は之を抑へ、旧を復せんとするとき、新は之を駆るが故」に「吾人意識の推移は次第なるを便とす」の原則を示すようになるとする(夏目漱石『文学論』578頁)。

 そして、 「原則の応用」(三)で、漱石は、「此種の推移を実例に求むるとき吾人は農事に、学界に、文壇に、至る所に逢着するを見る。かの発明の一朝に天下の耳目を驚かして、炳乎たる日輪を咄嗟に得たるが如き観あるものさへ、深く其伝統を尋ねて承継する所を察すれば、淵源の遠き意外なるもの多し。近世進化論を取って検するも亦此撰に洩れざるのみを討究してさへ既に一朝一夕の産物にあらざるを悟るは容易なるべし」(夏目漱石『文学論』578頁)とする。
                                         
 原則の応用(四) 漱石は、ここで、「焦点意識に競争ありと云ふ原則を叙説」し、「前章に於て推移の漸次ならざる可からざるを證明せる時、人間活動の諸方面にわたって種々の例を挙げたるが故に、此章に言はんと欲する所の事実は暗に前章に證明せられたるに近しと云ふも不可なしと雖も、ここに別章を設くるは此問題の興味多くして吾人の注意を惹く事大なるが為なり」(夏目漱石『文学論』614頁)とする。

 そして、漱石は、「此競争は少時間の個人意識をとって之を解剖的に検査するとき尤も明瞭に其真相を発現するを見る。ここに一個のFあって意識の波頭に住するとき、取って之に代らんとするもの、即ちF′としてFに継で起るものは雑然と群がり来って其多きに堪へざるの観あり」(夏目漱石『文学論』614頁)とする。

 補遺  最後に、漱石は、「前章に述べたる推移の順序、種類、並びに例證の外論ずべきもの固より多くして、時日の欠乏と材料の不足より、やむを得ず詳論しがたきものを集めて一章」(夏目漱石『文学論』650頁)とした。

 漱石は、文界に及ぼす暗示の種類として、@「物質的状況と文学との関係」、A「政治と文学の関係」、B「道徳と文学の関係」をあげる。次いで、新旧精粗に関して暗示の種類を指摘し、暗示の方向と其生命として、@「同一の暗示を発現せる作物が前後して公けにせらるる場合には、暗示を第一に発現するもの、換言すれば其著作を第一に公けにしたるもの、尤も長命なり」、A「同一の暗示を発現せる作物が前後して公けにせらるるに関はらず、代表者を擇んで自己を後世に伝へんとせざる場合ありとせば、此団体の各が後世に残ると想像するか、又は其各が灰滅すると想像するより外に解決の途なかるべし」、B「同一の暗示を発現せる作物が前後して公けにせらるる場合に、前なるも滅し、後なるも滅して、只中間に出でたるものが強く人の心を動かし、永く世間に記臆せらるる事あり」(夏目漱石『文学論』650ー672頁)とする。

 そして、漱石は、「本章に述ぶる所は凡て布衍して詳論するの価あるものなり。不幸にして材料時日の欠乏より吾意の如くするを得ず。因って補遺として其大要を約言す」とする。


                                      小   括 

 世界的な意義 この『文学論』は、自然科学に造詣深い文学者が、記述学派や心理科学に導かれてFとかf、或いはグラフ・図表まで導入して、「自然科学としての文学」の考察を試みた上で、文芸家は“why”を問題とし、科学者のように“How”に付きまとわれずに、時を切断して絵画、彫刻と同様に表現できるとして、科学によって文学固有の意義を明確に把握したものである。科学者が“How”の観点から自然の摂理を科学的に解明して、自然界では人間存在は無意味になるとすれば(後述の漱石「思い出す事など」をも参照)、文学者は、その自然界で無意味な人間が、なぜ存在するのか、なぜ神を敬うか、なぜ文化を創造するのか、なぜ恋に落ちたり憎み合ったり殺し合ったりするのか、なぜ倫理道徳が必要なのかなどなど、人間に関わる“why”を問題とするということを「科学的に把握」するのである。漱石は、分子生物学者が解明したことを約100年前に文学側から把握し指摘していた事になるのである。

 その事を科学的に理解した上で、漱石は、自信をもって明確に科学と文学の相違を打出し、改めて科学は文学的感興を破壊するとし、根底には心理科学などの自然科学志向を残しつつ、文学固有の特徴を解明してゆくのである。漱石は、科学で文学の学問的位置づけをし、更に科学、特に心理科学で文学の科学的創作を試みるのである。だからこそ、漱石の到達した理想的境地が則天去私になるのである。自然科学的には「ほんの偶然の命」(漱石「思い出す事など」)であり存在根拠の無い、或いは薄い人間が、苦悩の末に生き甲斐をもとめるとすれば、則天去私しかないのである。それは、般若心経の空の境地でもある。それは、少なからざる分子生物学者ら科学者が共感する境地なのでもある。自然科学的思考をも持つ漱石には、もはや科学抜きでは文学を創造できなくなっていたのである。この意味では、漱石『文学論』は世界的に比類のない文学論だと断言できるのである。

 それだけではない。恐らく、1904年(漱石が『吾輩は猫である』を発表し始めた年である)に初めてオックスフォード大学で英文学講座が開設されるような状況では、当時において未だ普遍的で本格的な文学論そのものもなかったのである。ただし、既に19世紀には植民地であるインド、カナダなどでは大学に本国文化の優越性を紹介すべく英文学科や教授職ができていたが(前掲大橋洋一『新文学入門』)、漱石『文学論』ほどの普遍的学問性はなかったであろう。漱石自身も、研究史的に当時において一目に値するような「文学論」がなかった事ぐらいは東京の図書館やロンドンの図書館・書店などで調査して分かっていたであろう。実際、漱石は、前述のように『英文学形式論』で文学論に関係した定義を渉猟したが、これと言った成果はえられなかったと述べていた。また、漱石は、「私の個人主義」の中で、当時、東京の図書館には「その道(文学論)に関した書物も乏しかった」とも書いている。

 漱石自らも、こうした二つの世界的意義を十分に心得ていた。それは、漱石が『文学論』序(10頁)で、「余は余の提起せる問題が頗る大にして且つ新しきが故に、何人も一二年の間に解釈し得べき性質のものにあらざるを信じた」とはっきりと書いている事からも確認されよう。漱石は、『文学論』が、すぐには評価されないが、自然科学によって文学の正体を照射するという大問題と、初めて研究空白を埋めるという世界的意義をもつことに責務と自信を持っていたのである。ただし、この「頗る大にして且つ新しき」という事の解釈に関しては、自然科学によって文学の正体を照射するという事と、文学論研究の空白を埋めるという事の双方が、各々において大にして新しい事なのだという解釈も可能であろう。

 いずれにしても、漱石は、この『文学論』を書き上げれば、それがこの二点で世界的大研究になる事を自覚していたのである。これは、東京帝国大学文科大学英文科入学以来悩まされてきた「文学論を大成」(『文学論』11頁)することであるのみならず、漱石が少年時代に抱いた西洋人も驚嘆させる「えらい文学上の述作」・「大文学」の実践の一部でもあったのかもしれない。だからこそ、ロンドンにあって、研究にひたすら没頭したのであり、その専念ぶりが英国人には「神経衰弱」(『文学論』序17頁)であるかの様に見えただけのことである。だが、漱石の内面は相変わらず頗る堅固であり、問題意識を研ぎ澄ましつつ、大研究にひたすら熱中していたのである。こうした研究状況の認識と研究意義の自覚のもとに、漱石は、英国文化の優越性紹介などとは無関係に、この700頁にも達せんとする文学論大作を書き上げたのである。

 こうして、漱石『文学論』は、細部では各種批判もあるのであるが、大局的にみれば、科学的な文学論であるという事と、普遍的な文学論であるという事の二点において、世界的に比類のない画期的意義をもつものなのである。まさに『文学論』は世界最初の普遍的で学問的な文学論なのであり、東京帝大は漱石講義によって世界最初の普遍的で学問的な文学講座を開いた大学という栄誉をもつことになったのである。

 ただし、漱石は、「本章に述ぶる所は凡て布衍して詳論するの価あるものなり。不幸にして材料時日の欠乏より吾意の如くするを得ず。因って補遺として其大要を約言す」とし、文学固有の特徴に関する記述はこれでもまだまだ不十分だと謙遜している。

 そして、彼は、「文学論として論ずべき事項は以上五篇(@文学的内容の分類, A文学的内容の数量的変化, B文学的内容の特質, C文学的内容の相互関係) D集合的F)にて悉くせるにあらず。漸くに論じ得たる以上、五篇も亦其布置、繁簡、段落、推論の諸点に於て余が為に意に満たざるもの頗る多し。忙中に閑を偸(ぬす)んで随書随刷纔(わず)かに業を卒るを得たるを以て、思索推敲の暇なきによりして、罪を大方に得る事多からん」(夏目漱石『文学論』672頁)
と、学者的誠実さを披瀝して本書を閉じている

 にも拘らず、漱石「科学的文学」の方法論的基礎が、ここに『文学論』としてまとめられたのである。その序文(明治39年1月)によると、漱石は、後輩の中川芳太郎(後の八高英文学教授)に講義原稿の整理を依頼し、漱石自らの校閲・改訂を経て、明治40年5月に大倉書店から刊行したのであった。

 漱石個人の意義 東大英文科の講義を受けたばかりに追い込まれた文学的停滞・混迷・行き詰まりから漱石を救ったものこそ、二重の意味で科学的であった、この『文学論』だったのである。もし漱石が、東大で学問的なる教師によって、自然科学的洞察に裏付けられた「科学的」文学論の講義を受けていれば、こういう問題に直面することなく、漢文学・国文学で涵養した文才を遺憾なく発揮して、もっと早くから小説を創作することが出来たであろう。

 だが、実際には、こういう学問的教師に恵まれなかったために、漱石は十年余にわたって文学的懊悩に追い込まれた。漱石は英国留学中に、池田菊苗(物理化学者)と出合い、議論して、マッハ、ピアソンの科学思想に触れて、初めてこの文学的懊悩をほぐし始め、解き明かし、全て氷解させることができた。こうして、漱石は、『文学論』の構想を具体化し、それを執筆することによって、長年悩んできた文学上の疑念を解消することに成功したのである。日本でも、上記世界的意義ある大研究の執筆のみならず、このような個人的問題の解決の作業に没頭し、小説創作にも従事し、その没頭ぶりが親戚からも「神経衰弱」などと誤解されたりしたのである。だが、漱石の内面は頗る強固である。これは、漱石が若い頃から堅固な内面に裏付けられてきた自己本位の発現だったのである。漱石の自己本位とは決して利己主義でも、自己中心主義などではないのである。だから、利己主義と則天去私は矛盾するとしても、自己本位とその帰結たる則天去私とは何ら矛盾することはないのである。『文学論』は、上述の則天去私的な世界的意義のみならず、自己本位に徹する漱石個人の文学創作上の意義においても、極めて大きな意義を持つものとなったのである。漱石は、創造にともなう生みの苦しみを味わいながらも、十年来の疑念を氷解してくれるものとしてこの『文学論』を喜びと充実感のうちに書き上げたに相違ない。

 ここに、漱石は、この『文学論』執筆・脱稿(39年11月。なお、刊行は40年5月)の喜びの中で、はじめて小説を自然に生み出すように創作し、俳誌『ホトヽギス』などに発表する事ができたのである。『我輩は猫である』(明治38年)、『漾虚集』(大倉書店、明治39年5月)、『坊ちゃん』(明治39年4月)、『草枕』(『新小説』39年9月)はその作成中の作であり、『野分』(40年1月)はその脱稿直後の作であったことになる。舞台は、『吾輩は猫である』は故郷東京下町、『漾虚集』は浪漫主義的・詩的な英国など、『坊ちゃん』は最初の赴任地松山、『草枕』は次の赴任地熊本であり、『野分』は当時の成金地域(石油成金地域の新潟、炭鉱成金地域の九州、成金亡者の充満する東京。ここに、白井道也という道義心の厚い教師が赴任するかたちをとっている)である。それらは以後の漱石の現代文明の批判の基本方向を指し示すものであり、まるで長年の悩みによって抑えつけられていた創作意欲の箍が外れて、溜めてきた構想が溢れ出るかのように生み出された作品群であった。『文学論』と小説群は連動し共鳴し合っていたのである。実際、晩年の漱石は、「則天去私の四文字を得て、もう一度大学で組織的理論的な文学観を講義して見たいと複数の弟子が伝えている」(久米正雄「生活と芸術と」『文章倶楽部』1916[佐藤深雪「夏目漱石とプラグマティズムー集合的Fとは何か」Hiroshima Journal of International Studies,Volume20 2014])と、『文学論』と小説群との連関を指摘していた。

 以後も、漱石は謙遜したり、明らかな誤解に抗弁することもないが、それは漱石が内面的に堅固だからである。漱石にとって、謙遜、隠忍自重は、内にエネルギーを貯え、熟成させる行為であり、したたかな方便なのである。49歳で朝日新聞社員として死去するまでの10年間に、この『文学論』を基盤として、したたかに小説を創作していった。漱石の文学人生とは、『文学論』構想・創作の十年と小説創作の十年(以後、前期三部作[『三四郎』明治41年、『それから』42年、『門』43年]、胃潰瘍で療養[44年]、後期三部作[『彼岸過ぎ』・『行人』45年、胃潰瘍で療養大正2年、『こゝろ』大正3年]、『道草』大正4年、『明暗』大正5年)とに二大別できるかもしれない。だから、大正3年に、「私の著わした文学論はその記念というよりもむしろ失敗の亡骸です。しかも畸形児の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものです」(「私の個人主義ー大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述」[『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和63年]) などと謙遜しているが、これをを鵜のみにしてならないのである。確かに、その世界的意義を評価できる大学者こそがいなかっただけであり、漱石は『文学論』の基盤のうえに次々と小説を創作して、その世界的意義をますます確認していた事であろう。

 だからこそ、漱石は晩年にいたるまで「科学と文学」というテーマを抱き続けていたのである。この事は、『断片』の大正5年5月(同年12月に死去)の項で、「倫理的にして始めて芸術的なり、真に芸術的なるものは必ず倫理的なり」とあるのに続けて、「自然科学一般化 その法則を個性に適用する医術の不完全」、「科学の応用(工科)と文芸 個象より出立する。法則より出立する。ユニヴーサリチーの程度(双方)」(『漱石全集』岩波書店、昭和32年、214頁)と記述している。このように、晩年まで、漱石は、科学の一般化、応用(工科、テクノロジー)と文学の関係を考えていたのである。

 このように、まさに、漱石の人生とは、単なる小説家・物書きなどではなく、大学者として極めて充実したものだったのである。『文学論』創作の十年、小説創作の十年、この二十年の学問的結晶の総体が、漱石が少年時代に抱いた西洋人も驚嘆させる現代西洋文明を批判する「えらい文学上の述作」・「大文学」だったのかもしれない。

 文学創作の家計的基盤と新聞 こうして漱石が『文学論』に基づき創作活動を本腰を入れて活発化しようとしても、大きな現実的な問題が前途に待ち構えていた。つまり、漱石にとっての現実的な生活上の問題は、大学講義の準備時間の確保、家庭生活維持費の捻出などをこなしながら、いままで溜めこんできた小説創作の時間をいかに確保するかという事に絞られてきたはずである。

 当時の各新聞社は、日清戦争、日露戦争の報道で部数を増加していたが、これを維持・増加するために、都市中間層らをひきつけようとし、文芸欄を充実させ、小説を連載するなどして、紙面を多様化する必要に直面していた(濱田信夫「日本の新聞産業を牽引した企業家活動― 村山龍平と本山彦一 」法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、129、2012年7月)。

 まず、漱石「獲得」に読売新聞が動いた。明治39年後半、読売新聞主筆に就任した竹腰与三郎が、『文学論』講義、『吾輩は猫である』、「倫敦塔」、「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」、「薤露行」創作などで波に乗り始めた漱石に着目した。39年11月6日白楊先生(森田草平)宛書簡(『漱石全集』第12巻、漱石全集刊行会、大正8年、596頁)で、漱石は、「文学論の序は文章を見てもらふのでも何でもない。あの通りのことを読んでへエーと云ってもらへばいい。読売にのせる必要もなかった。何かくれと云ふからやった」とあり、読売新聞は漱石になんでもいいからと作品を求めてきた。

 今度は、竹腰は、東京帝大英文科・法科中退の瀧田哲太郎に漱石の文芸欄担当の打診を依頼してきた。瀧田は、当時『中央公論』の編集に従事し、文芸欄充実を主張して、漱石「一夜」、「薤露行」の掲載を実現させていた。その瀧田が漱石に、「読売新聞文壇」を月60円で「各日に一欄一欄半」担当するという竹腰の要請を伝えたのである。

 しかし、39年11月16日付瀧田哲太郎宛書簡(『漱石全集』第12巻、漱石全集刊行会、大正8年、507−9頁)によると、漱石は、@「読売新聞文壇」を担当するのは「ちと骨が折れ」、かつ「後世に残る事業ではない」事、A月60円、年720円は大学俸給にほぼ匹敵し、「大学は別段難有いとも名誉とも思ふ居らん」から、高等学校、大学「どっちをやめるかと云へば大学をやめる」が、「読売新聞は基礎の堅い新聞かもしれないが大学程堅くはない。尤も大学もいつ僕を免職するかもしれぬ。・・若し其懸念を度外視するときは大学の俸給は読売よりも比較的固定している」事、B「竹腰氏は政客である。読売新聞と終始する人ではなからう」から、事情如何では「僕は一人で立場を失ふ様に成かも知れぬ」事として、これに消極的であった。ただし、「もし僕の月給を増して僕の進退を誘ふとすれば僕も少しは動くかも知れん」と、月給次第では考慮するともした。結局、読売新聞ではこれ以上の好待遇はできぬとしたようで、この件は流れた。漱石は、文学活動の基盤としての家計の維持には実にしたたかである。

 一方、朝日新聞は、既に37年3月に二葉亭四迷を内藤湖南の紹介で大坂朝日新聞社に迎えていた。40年には、朝日新聞社は文芸欄を充実させるために、、読売新聞以上の大胆な好待遇で漱石を迎え入れようとした。これに関与したのが熊本県出身者であった。つまり、大阪朝日新聞編集幹部の鳥居素川(熊本県済々黌を卒業し、民本主義の論陣を張る)が漱石入社勧誘を決断し、東京朝日新聞編集幹部の池辺三山(西郷隆盛が決起して熊本に来た時に父池辺吉十郎は「学校党」士族を中心に熊本隊を結成したように、熊本実学党の「末裔」である)と相談して、同郷の東京帝大生で五高時代の漱石教え子白仁三郎(後に能楽評論家の坂元雪鳥)に斡旋を要請したのである。漱石妻の鏡子は鳥居が『草枕』(明治39年9月)を読んで招聘を決定したというが(夏目鏡子『漱石の思い出』角川書店、1954年)、確かに池辺、鳥居は故郷熊本を舞台とした『草枕』に着目したろうが、「硬派」であり、その浪漫主義にはやや躊躇していたとも推察される。しかし、彼らは、明治40年正月に『ホトトギス』に掲載された『野分』の主人公道也が「道に生きる成金批判者である」ということで態度を決めたとも考えられる。或いは、彼らは単にきりのいい年度末を待ち構えていただけかもしれない。

 こうした事情で、40年2月に彼らは漱石獲得に乗り出した。40年2月22日付白仁三郎宛書簡(『漱石全集』第12巻、漱石全集刊行会、大正8年、562−3頁)で、漱石は、「御手紙拝見。実はいつでもよろしと申度なれど 只今ある仕事に追はれ其方を一日も早く片づけねばならぬ故 日曜の十一時と十二時の間に御出被下候へば好都合に存候」と、池辺、鳥居の意向を受けた白仁と漱石邸での面会日時を伝えている。白仁は在京の池辺と相談して、池辺は大阪の鳥居らと打ち合わせて、3月までには待遇条件を固めたようだ。

 40年3月4日付白仁三郎宛書簡(『漱石全集』第12巻、564−5頁)では、漱石は、「大学より英文学講座担任の相談有之候。因って其方は朝日の方落着迄待ってもらひ置き候」とし、@「手当の事 其高は先日の仰せの通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや。それから手当の保證、是は無闇に免職にならぬとか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保證してくれるとか云ふ事」、A「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも元の教育界にもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込みなければ一寸動きがたき故、下品を顧みず金の事を伺ひ候」とした。そして、「小生はある意味に於いて大学を好まぬに候。然しある意味において隠者の様な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候」が、「大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候。夫故一寸やって見度候」(『漱石全集』第12巻、565頁)とした。漱石は、非学問的で権威主義的な大学などは嫌だったのである。さらに、40年3月11日付白仁三郎宛書簡(『漱石全集』第12巻、566−7頁)で、漱石は、「先日御話の朝日入社の件につき未だ多忙に付き熟考せざれども」、@「小生の文学的作物は一切を挙げて朝日新聞に掲載する事」、A「其分量と種類と長短と時日の割合は小生の随意たる事」、B俸酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候」、C「小生の位地の安全を池辺氏及び社主より正式に保證せられたき事」などが受け入れられれば、「進んで池辺氏と会見致し度」とした。

 この間の交渉について、漱石は、新聞社に「担任の仕事はと聞くと只文芸に関する作物を適宜の量に適宜の時に供給すればよいとの事である。文芸上の述作を生命とする余にとって是程難有い事はない、是程心持ちのよい待遇はない」(夏目漱石「入社の辞」)としていた。漱石は、留学義務としての4年間講義が終ったことを背景に、朝日新聞に入社すれば生活逼迫(年俸800円では家賃・養育費などを賄えず、「仕方がないから他に二三軒の学校を馳あるいて、漸く其日を送って居」て、創作に専念できそうになかった)から解放され、創作に専念できると見たようだ。当時の「漱石は何か書かないと生きている気がしな」(夏目漱石「入社の辞」[明治40年5月3日付朝日新聞<『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和47年>])い様になっていたのである。

 こうして、漱石の創作意欲と新聞社の経営拡大意欲とがぴたりと合致して、朝日新聞入社を決めた。40年4月12日付白仁三郎宛書簡(『漱石全集』第12巻、577頁)で、漱石は「今回の事はもと大阪鳥居氏の発意に出で夫より東京にて大兄の奔走にて三分二成就致し候」としている。

 そして、『文学論』刊行前後から大正5年(1916年)に死去するまでの僅か十数年間に、漱石は文学創造に没頭して、数多くの作品を集中的に新聞を媒介にして世に発表してゆくのである。      

                             三 漱石文学展開と「科学と文学」

 以上の漱石『文学論』にもとづいて、漱石は小説を書きあげていったのであり、萩原氏は、「漱石の『文学論』は漱石文学の土壌であり、漱石文学とは『文学論』という土壌に蒔かれた種が色とりどりの文学作品として開花したものである」(荻原桂子「漱石の『文学論』」)と的確にのべている。そうした文学活動の総決算ともいうべきものが後期三部作『彼岸過』(大正元年)・『行人』(大正元年―2年)・『こころ』(大正3年)や、『道草』(大正4年)、『明暗』(大正5年)などになったのであるが、既にそれらの作品論は周知の如く少なからずあり、かつ筆者の時間的制約から、ここでは、それ以前の諸作品について漱石の「科学と文学の関係論」を考察するにとどめておこう。

                             1 漱石の自然科学・地球科学論

 自然科学 前述の通り、漱石は少年時代から自然科学系にも関心があったから、
作品の中に物理学の知識をしばしば示している。例えば、『我輩は猫である』(明治38年。この年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表)において、苦沙味宅に落雲館の生徒が「ダムダム弾」を打ち込む場面で、漱石は、「今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準誤たず、四つ目垣を通り越して桐の下葉を振い落して、第二の城壁即ち竹垣に命中した。随分大きな音である。ニュートンの運動律第一に曰くもし他の力を加うるにあらざれば、一度び動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。幸にしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子を裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンの御蔭(おかげ)に相違ない。」と、ニュートン力学法則をあげている。ここまで、ニュートン力学を説明した純文学がほかにあろうか。この意味深な『滑稽』「風刺」小説の陰に隠れて、漱石の物理学的知識が少しも嫌味なものになっていないのである。

 そして、生徒が苦沙彌邸内で場所がわかっている「ダムダム弾」を探索する行為について、漱石は、「敵が主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。こっそり這入って、こっそり拾っては肝心の目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かも知れないが、主人にからかうのはダムダム弾以上に大事である。この時のごときは遠くから弾の所在地は判然している。竹垣に中った音も知っている。中った場所も分っている、しかしてその落ちた地面も心得ている。だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ず鰌がいる。蝙蝠に夕月はつきものである。垣根にボールは不似合かも知れぬ。しかし毎日毎日ボールを人の邸内に抛り込む者の眼に映ずる空間はたしかにこの排列に慣れている。一眼見ればすぐ分る訳だ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは必竟ずるに主人に戦争を挑む策略である。」(『吾輩は猫である』)と、今度はライプニッツを挙げている。

 『坊ちゃん』(明治39年)の主人公は、物理学校を卒業したばかりの数学教師である。明治19年、予備門時代の漱石が江東義塾(本所)で教師を勤めたとき、教えたのは数学、地理学(ただし英語で)であった(小山慶太『漱石が見た物理学』)。

 後に東京帝大物理学教授にになる寺田寅彦が、漱石の第五高等学校(熊本)での教え子であり、後に東京で漱石の「弟子」になったのは、この様に漱石に物理学の素養があったからである。『我輩は猫である』にでてくる物理学者水島寒月の「首縊りの力学」(サミュエル・ホウトン「力学的および生理学的に見た首縊利について」)などは、寺田から教えられたものである。寺田にとって、漱石は「一般科学に対しては深い興味をもっていて、特に科学の方法論的方面の話をするのを喜ばれ」、絶えず「文学の科学的研究方法」を念頭においていたとしている(「夏目漱石先生の追憶」昭和7年[小山前掲書、13頁])。小山氏によれば、「漱石が生まれてから」6年後の明治6年には「イギリスのマクスウェルが、電気と磁気の現象を統一して扱う理論を完成し」、ついで「明治10年には、オーストリアの理論物理学者ボルツマンが、熱力学第二法則に確率論に基づく解釈を与え」たが、やがて「量子力学と相対性理論というまったく異質な新しい体系」が登場し、「漱石の生涯は物理学の激動期と並行」(前掲書、15−6頁、180頁)していたと、的確にしてきしている。

 地球科学
 漱石は、「思い出す事など」(「朝日新聞」明治43年10月〜明治44年4月[『夏目漱石全集』7、筑摩書房、昭和63年])において、地球・宇宙について考察している。

 漱石は、「限りなき星霜を経て固まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹して瓦斯に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰の区別を失って、爛たる一大火雲のごとくに盤旋するだろう。さらに想像を逆さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ々たる一塊の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴たる今日から溯って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張れば、一糸も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭によって生息する吾ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。」と、地球史の中にはかない「ほんの偶然」の人間の登場を的確に把握する。これが自然科学的に見た人間存在のはかなさである。
 
 そして、漱石は、地球大気成分の変化について、「平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣さえした事がない。その心根を糺すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌なる酸素が地上の固形物と抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球の表面に瓦斯のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝く他人を悲しみ、友を懐しみ敵を悪んで、内輪だけの活計に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。」と述べる。地球温暖化ではなく、地球冷却化を指摘している。いずれにしても、大気成分の変化で人間生活が大きくかかわっていることを鋭く見抜いていた。

 漱石は、「進んで無機有機を通じ、動植両界を貫き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間なく発展して来た進化の歴史と見傚すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁を埋むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭に上りつめたと自任する人間の自惚はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛らきジスイリュージョンを甞めている」と、地球史上に占める人類のささやかな位置を自覚して、謙虚であるべきことを説く。

 漱石は、「種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数に上るという。そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟は毫も存在していないだろう。」と、人間の死を把握するのである。漱石は、「こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。」とした。金や富を追い求める人間もまた、か弱い存在、それが人間存在である。

 物理学の自然観察方法 漱石は、『三四郎』(「朝日新聞」明治41年9〜12月)において、観照的自然観察と道具使用の自然観察を指摘する。

  「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣りランプの一振動の時間が、振動の大小にかかわらず同じであることに気がついたり、ニュートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのは、はじめから自然派」である。だが、「光線の圧力を試験するために・・・人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛ける」のである。しかし、「いったんそういう位置関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察するだけだから、それからあとは自然派」ともいえる。だから、物理学者は、「浪漫的自然派」であるとする。
                            
 自然の尊さ 漱石は、『草枕』(「新小説」明治39年9月[『夏目漱石全集』3、筑摩書房、昭和62年])において、「詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう」と、自然の素晴らしさに言及する。

 だが、「苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。ただこの景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である」と、自然の力を指摘する。

                              2 漱石の工富社会批判


 『野分』 漱石は、『野分』(「ホトトギス」明治40年1月)で、日本各地の現金威力を述べている。

 白井道也は文学者である。最初に赴任した越後の中学校はで、石油成金を目撃した。「学校のある町の繁栄は三分二以上この(石油)会社の御蔭で維持され」、「会社の役員は金のある点において紳士」であった。道也はある時の演説会で、「金力と品性」と云う題目のもとに、「両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた」のであった。役員らは「生意気な奴」と言い、町の新聞は「無能の教師が高慢な不平を吐く」と評した。彼の同僚、校長、父兄生徒すらも、「身のほどを知らぬ馬鹿教師」と云い出した。

 次に渡った九州には、炭礦成金がいた。そこでは、「黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない」のであり、「権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。」とした。「金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。」とされた。中国辺の田舎の学校では、「猛烈な現金主義」こそなかったが、「土着のものがむやみに幅を利かして」いた。「ある時旧藩主が学校を参観に来た」が、道也は挨拶もせず授業を続けていたので、「事が六ずかしくなった」のだった。子爵の華族様がいったい何様だというのか、これが漱石の心意気であった。

 漱石、いや道也にとって、成金亡者の充満する東京は、また「日本で一番世地辛(せちがら)い所」であった。道也は、「学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る、好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。」としていた。そして、彼は、「学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋劣と心得た。彼が至る所に容れられぬのは、学問の本体に根拠地を構えての上の去就であるから、彼自身は内に顧みて疚しいところもなければ、意気地がないとも思いつかぬ。」のであった。

 そして、「三度教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手柄を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位をちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。」とした。漱石は、博士号という虚号の正体を鋭く見抜いていた。

 漱石は、道也を通して、日本に蔓延り始めた金権主義を批判したのである。

 『三四郎』 漱石は、『三四郎』(「朝日新聞」明治41年9〜12月)で、日本の近代化の急激さを地方青年の三四郎に語らせている。漱石は、「三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。・・・すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。」とする。

 漱石は、三四郎を介して、「今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もたなかった。三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却し、不愉快でたまらない」と、既存学問の無能さを語らせた。なぜかというと、三四郎は、「この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」ということからであった。

 漱石は、「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している」とし、急激な工業化は日本人を不安に追い込むだけだと批判したのである。

 『現代日本の開化』 漱石は、『現代日本の開化』(明治44年8月和歌山において講演。『夏目漱石全集』10、筑摩書房 昭和63年)において、急激な日本工業化を本格的に批判する。

 漱石は、「私は現代の日本の開化という事が諸君によく御分りになっているまいと思う。御分りになっていなかろうと思うと云うと失礼ですけれども、どうもこれが一般の日本人によく呑み込めていないように思う。」として、周知の二種類の開花を説くのである。つまり、漱石は、「開化は人間活力の発現の経路である。と私はこう云いたい。・・・・時の流を沿うて発現しつつ開化を形造って行くうちに私は根本的に性質の異った二種類の活動を認めたい・・・一つは積極的のもの(勢力の消耗を意味する事)で、一つは消極的のもの(勢力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫)である。・・・この二つの互いに喰違って反の合わないような活動が入り乱れたりコンガラカッたりして開化と云うものが出来上るのであります。・・・できるだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、できるだけ気儘に勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象ができるのであります。」と主張する。

 そして、漱石は、「以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだ」のは「生れながらそう云う傾向をもっている」からであり、「吾人の今日あるは全くこの本来の傾向あるがためにほかならんのであり」、「元のままで懐手をしていては生存上どうしてもやり切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げた」とする。だが、漱石はここで鋭い問題提起をするのである。彼は、「古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであ」るが、実際は「御互の生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだと云う自覚が御互にある。否開化が進めば進むほど競争がますます劇しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。」というのである。

 漱石はこの点を生存競争について掘り下げて、「活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力をあえてしなければ死んでしまう。やむをえないからやる。のみならず道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいと云う方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかと云う競争になってしまったのであります。」と、現在は生死に関わる深刻な競争になっていると喝破する。

 そして、漱石は、日本の開化を西洋と比較して、「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。」とする。彼は、「ある時は三韓また或時は支那という風に大分外国の文化にかぶれた時代もあるでしょうが、長い月日を前後ぶっ通しに計算して大体の上から一瞥して見るとまあ比較的内発的の開化で進んで来たと云えましょう。」と総括し、「少なくとも鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく突然西洋文化の刺戟に跳ね上ったぐらい強烈な影響は有史以来まだ受けていなかったと云うのが適当でしょう。日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。また曲折しなければならないほどの衝動を受けたのであります。これを前の言葉で表現しますと、今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。」と、明治維新後の開花を外発的とする。これは、漱石のみならず、多くの人々の実感でもあったろう。

 しかも、漱石は、それは持続的影響を与え、「向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない。その理由は無論明白な話で、前詳しく申上げた開化の定義に立戻って述べるならば、吾々が四五十年間始めてぶつかった、また今でも接触を避ける訳に行かない」とする。

 その西洋の開花とは、「我々よりも数十倍労力節約の機関を有する開化で、また我々よりも数十倍娯楽道楽の方面に積極的に活力を使用し得る方法を具備した開化である。・・・つまり我々が内発的に展開して十の複雑の程度に開化を漕ぎつけた折も折、図らざる天の一方から急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化」なのである。これが「俄然として我らに打ってかかったのである。この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である。」と、日本の外発的開化を説明する。

 漱石は、「西洋で百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏を免かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろうとすればこれまた由々しき結果に陥るのであります。百年の経験を十年で上滑りもせずやりとげようとするならば年限が十分一に縮まるだけわが活力は十倍に増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさえ容易く首肯するところである」と内発的開化の困難を述べる。そして、漱石は、「開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。」と、急激な日本開化の及ぼす精神的危機を結論する。漱石は、「実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論」をだすのである。

 こうして、漱石は、自然を重視する観点から、急激な明治資本主義に対して、単なる文学者の感情的批判ではなく、自然科学的批判をしていたともいえよう。

                                              平成28年11月27日  千田稔
                       

       



                            World  Academic  Institute
        自然社会と富社会           世界学問研究所の公式HP                 富と権力      
               Copyright(C) All Rights Reserved. Never reproduce or replicate without written permission.